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ひとりごちるについて、ひとりごつ

ひとりごちるだと?なんでも動詞化してんじゃねえ!!

いえいえ、独言ると書くのです

 

ら抜きことばに、る付けことば。こういったものはけしからんという風潮、わかります。私は10代どころか、ひと桁のころから、根っからのレトロマニアでして。古めかしいことばの方が好きなんです。といっても、古語の研究などを専門にしているわけでなし、明治年間の文章や旧字体を読むのは苦労しますけどね。

 

さて、近年よくみる「る」さえ付けておけば動詞になるという文化、いまや新聞社すらオドケタ感じでやりはじめているので、あまり目くじら立てなくてもと思うのですが、由緒正しき日本語を是とするみなさまにとっては許しがたいことかもしれません。でもですね、結構前から「ひとりごとをいう」という動詞があるんですよね。小説などでよく見られたのは戦前戦後でしょうか。このころは「独言(ひとりごち)る」と書いて、ひとりごとをつぶやく様を表したりしています。そこからしばらく時代が降っても、歴史小説や時代小説の文体のなかで見かけたりします。ああ、そうそう。「くだっても」を「下って」と書いたりするのも新しいとかなんとか。これはちょっと真偽を確認したいんですけど、今回は脇道に逸れるのでパスしておきます。

 

ひとりごちるは新語なのか

 

「ひとりごちる」は新語で、戦前戦後、せいぜいこの70年の間にできたことばなのだから、やはり訂正すべきだという考え方もあるでしょう。

地下鉄の 終点に来て ひとりごつ まぼろしは死せり このまぼろし

斎藤茂吉 ー『つきかげ』(昭和20年代の作)

確かに、1950年くらいのことばなら、新語なのかも……しれません。斎藤茂吉といえば、私からすれば十分歴史上の人物ではあるのですけれども。では、次はどうでしょう。

 

また独言る久留米を、成瀬は我知らず噴き出しさうになつたが

北條民雄 ー『癩院受胎』(昭和11年・1936年)

斎藤茂吉の作より十数年前のものです。このときは「ひとりごつ」からさらに変化して「ひとりごち」という、る付きことばになってしまっているんですね。ということは、もっと前にも用例がありそうですよね。

 

然(そう)云つても可いかなあ』とひとりごちたので

尾崎紅葉 ー『多情多根』(明治29年・1896年)

おやおや、これなんて動詞の過去形になってるじゃないですか。ということは、120年前にはすでに存在し、活用されて、十分に定着していたといえそうです。

そこで私は、尾崎紅葉の『多情多根』に出てきたということは、もしかすると……と邪推して、紅葉の愛した源氏物語を調べてみることにしました。紅葉の作中には桐壺臭がしますからね。教科書で見かけただけで、どちらもあんまり読んでないんですけどね。で、そこに糸口を求めると、やはり。まったく、いいカンしてますよ。灰色の脳細胞と褒めてやりたい。自分で褒めないと誰も褒めてくれませんからね。

 

「ただ是れ西に行くなり」とひとりごちたまひて

紫式部 ー『源氏物語・須磨』(寛弘5年・1008年)

とりあえずこのあたりまで追ってみました。事実かどうかは疑われていますが、源氏物語はこの「須磨」の部分から書きはじめられたという説もありますから、日本の長編小説の元祖ともいうべき源氏物語の成立時にはすでに「ひとりごつ」という形の言葉は存在していたわけです。1000年以上の歴史あることばとわかった以上、これを否定するなら古語で会話するしかありません。古語どころか、古代語ですよね。奈良時代以前、神代・邪馬台国がどうのこうのの時代の言葉。こうなってくると、もはや完全に別物で、現代において使いこなしている人をみたことがありませんのでね。「ひとりごつ」なんて新語を気安くつくるな、使うなといえる人はいないであろうと。

 

尾崎紅葉と聞いて、先に井原西鶴の方を調べにかからずよかった。折れているところでした。源氏物語を愛した与謝野晶子も「ひとりごつ」という表現を用いたということが念頭にあったため、源氏つながりならどちらも紫式部にたどりつくのでは? という推測。幸運といいますか、ことばの神様の導きと申しますか。不思議なこともあるもんです。

 

よくよく調べてみると、その批判は、まったくお門違いということは案外そこらじゅうにあるもので。私自身、常々気をつけておかなければと肝に銘じたところです。

 

 

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