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書評『人がうごくコンテンツのつくり方』高瀬敦也

コンテンツってなんだろう

実はなんでもコンテンツ

 

コンテンツは内容のことです。つまり、どんなものでもこれはコンテンツだといえばコンテンツになるわけです。だからこそ曖昧で理解しにくい存在なんですよね。コンテンツ作りを任されたりすると、ほとんどの人の手が止まってしまうのは、コンテンツの定義や例が曖昧すぎるから。でも、なんでもコンテンツといえばコンテンツになるのですから、もっと堂々とコンテンツだと主張してしまってもいいのではないかと思います。

 

コンテンツったら、コンテンツ

 

コンテンツという言葉がやってきて広まった結果、コンテンツというものを認識することができるようになった。こういった現象はよくあるもので、それまでも変わらずあったのに、特別な名前を与えられたことで認識され、意識され、重視されるようになるんですね。ネーミングの魔力です。「くくる」ことでコンテンツ化してしまうともいえます。例えば「景観」がそうでしょう。ランドスケープでもランドシャフトでもいいのですが、海外から現在の日本語の「景観」に相当する語句が入ってきたことで訳語が必要となりました。そこで生み出されたのが「景観」です。学者や海外通はランドスケープ、ランドシャフトという言葉で景観の存在を認識していましたが、日本語の漢字になることで一般大衆にも理解できるものとなって、日本のどこにでもある景観は単なる風景ではなく、「原風景」だとかノスタルジーを感じさせるコンテンツになったのです。それまでも変わらずそこにあったのに、名前を与えられ、くくられたことで明治以降に価値が急上昇したわけです。もちろん、明治になって田舎に対する都会が生まれたという背景もありますけどね。

 

最近だと「スイーツ」なんかがそうでしょうか。「甘味」という相当する語句がありはしましたが、「くくる」ことでコンテンツになった例です。スイーツというと、和の甘味も西洋やそのほかの地域の甘いものも含む大きな語句ですから、一見して「くくって」いないように見えます。しかし、スイーツというくくりかたは、甘さにだけ注目し、甘味の持つ「和風であること」という制限を取っ払った結果、多くの文化と多くの人々に支持されるようになったんですね。この甘さだけに注目するということ、見た目のルール、例えばお茶にあいそうなわびさびだとか、ブルボン朝が食べていそうな高級感、昔から作られ続けてきた家庭的な優しさといった枠を破壊すると同時に、インスタ映えするようなものも「甘ければ価値がある」「甘ければスイーツだ」ということにしたわけです。これはおもしろい創造的破壊だと思います。伝統側から見ると眉を潜めたくなるでしょうけれども。

 

つまり、誰かが「これがコンテンツです」といいさえすれば、手順や背景などとは無関係にコンテンツ化し得るということです。もちろん、当たるかどうかはそのポテンシャルと運頼みですけどね。

 

(次のページでは具体的にコンテンツ化について考えます)

 

狭めればコンテンツ

 

「くくる」という言葉を使いましたが、本書では「狭める」という表現をしています。ここまで述べさせていただいたように、コンテンツ化は言語化だとか、くくるだとか、狭めるといった、見える化なんですね。たくさんの人に理解してもらおうというものは、コンテンツになりにくいんです。「人間は呼吸する」「日本人の主食はコメ」「犯罪者のほぼ100%が食事をしている」これらは面白味を出すことはできても、強烈なコンテンツにはなりません。なぜって、それが当たり前だからです。日本の農山村の、段々畑のなかにポツポツと茅葺き屋根が見えるなんてものはいまでこそコンテンツですが、かつてはコンテンツではありませんでした。当たり前だからです。逆に現代なら、サイコロのような家や、モノトーンカラーの家、南欧風の家などがゴチャゴチャと都市部に密集している姿というのは、コンテンツになりませんよね。なーんにもおもしろくないからです。京都だとか川越だとか、徳島県の「うだつの街並み」などがクール! といわれるのは、当たり前ではなくなったから。これらは時代の変化で勝手に狭まり、コンテンツ化されたものですが、あなたがコンテンツを作為的に生み出そうと考えているのであれば、安易に大衆に受けようと思わないことです。それは相当に難しいことで、原理原則に反する行為だと理解しておく必要があるでしょう。

 

まとめ

 

 

これらがコンテンツを生み出すための基本といえそうです。

 

 

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