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人の目なんか、気にしない!|デューク・ロビンソン著

学校で教わる人生に大切なことは、常に守るべきことではないかもしれない

完璧主義の八方美人

 

私は故あって、人に嫌われることを極端に恐れております。そういう性格に育った背景についてはご想像にお任せしますが、小学生くらいまでは、なにか悪いことが起こると、それが天災でも事故でも自分の行いが悪かったからではなかろうかと思い悩んでおりました。その傾向はいまでこそ薄らぎましたが、まだもって消えてはおりません。そんな私に救いを与えたのが、道徳と倫理です。つまり、学校教育ということになります。

 

学校のなかでは、正しい人の在り方というのを教わります。そして、それを実践する限りにおいて、とても褒めてもらえる。ところが、実社会に出るとそうではありません。「困っている人を助けてあげなさい」を忠実に守ろうとすると、際限なく助け続けなければならず、先に自分が参ってしまう。学校という閉鎖的な特殊空間でのみ成立することを道徳として教わり、時と場合によりけりという柔軟性を教えないがために、頑なに学校式道徳観のもとで生きる人が疲弊し、わかりやすくいえば損をし続け、学校式道徳観を学ばずに育った人間たちが「ただ普通に生きるだけ」で、学校での模範生をイライラさせたり、傷つけたりするのです。

 

世の中には、本人の力では乗り越えられない問題というものがあります。例えば病気などはそうでしょう。病気は適切に治療してやれば、それで済む場合もあります。しかし、生活習慣病などはどうでしょうか。根本的な人間の部分で問題を抱えているのに、高血圧や高脂血症といった問題に薬だけ処方し続けても、治療を辞めれば元どおりです。そうして「苦しい」「困っているんだ」といっている人にまで、誠心誠意尽くすのが正しいことなのかということ。

 

また、乗り越えられない試練を、支援によって乗り越えさせてしまうことで問題が起こることもあります。例えるなら、子どもの夏休みの宿題を絵心のある親が描いてしまい、コンクールで金賞を取ってしまうようなものです。本来、その力量がないのに、その地位に立ってはいけないのに、支援のおかげで助かって、本人はさらに一段上のステージで苦しみだす。「助けてほしい」「死んでしまいそうだ」これにも専門家がやってきて、魔法の杖でたちどころに解決するべきなのでしょうか。

 

私は困っている人を無下に扱え、命を見捨てろといっているのではありません。ただ、他人によく見られたいだとか、困っている人を助けるのが生き甲斐だといった、学校式道徳観の呪縛から逃れられず、問題をさらに大きくしたり、長引かせたり、助けている側が壊れてしまうような事態にだけはなってはいけない。そう思うのです。

 

完璧主義は社会的な病

 

こういった学校式道徳観にとりつかれるのは、私もそうですが、決まって完璧主義者です。意識的に完璧主義を破綻させなければ、自分がまいってしまうタイプの人間です。学校外において、完璧主義は損でしかありません。完璧に生きなければならないという自己への規律と、完璧に生きていない連中に対する怒りで、一秒たりとも休まることがないからです。

 

そして完璧主義にはもうひとつ大きな問題があります。自分のなかに価値基準がないということです。自分専用のものさしを持っていないということです。これがどれほどの害悪か。まず、第一に周囲にどう思われるかで行動が決まります。結果、自分の人生に責任が負えません。周囲のために生きることが正しいと思っていたのに、それは見当違いで、どこかで行き詰まり、どうすればいいかわからなくなる。自分は世の中のためにがんばってきたのに、こんな仕打ち許せない! と憤ったところでもはや手遅れだったり、問題の本質、自分の完璧主義とものさしがないことに気がつかないために、人生の軌道修正ができません。そうして、学校式道徳観にすがりながら、自分の人生の悪化を他者に求め、自壊しきるまで突っ走るのです。

 

なぜ学校式道徳観などという造語を用いたか

 

道徳観が植えつけられるのは、なにも学校だけではありません。もっとも早い段階の道徳教育は、家庭で行われることが多いでしょう。しかし、家庭の道徳観にはバラツキがあり、同時に親の愛情や賞賛の言葉がのちの人生の道しるべになる人もいれば、両親や家族の不和による心の傷、暴力から逃れることが行動規範となる場合もあって、同じ行動をとるようにプログラミングされても、その行動がまったく違う背景からきていることもあるからです。前述のように、誰かにほめられたい、それで自分の存在意義を確かめる、親や教師からの安全を手に入れたい一心で人助けに励む人もいれば、魂の発露として、もしくは純粋に人を助けることが好き、そこから利益を得ることが好きだとポジティブに行う人もいます。結果だけ見れば、どちらも人を助けていますが、内容を精査するとずいぶん異なるのです。ここに影響を与えるのは、差異が大きい家庭の道徳観であって、学校で画一的に教え込まれる道徳観ではありません。ざっくりと道徳といってしまうと家庭も学校も含んでしまいますから、学校式と銘打って、明確にわけたのです。

 

(次のページではアドバイスをするのはいい人どころか悪人?!についてお話します)

親身になってアドバイスするのはいい人じゃない

 

アドバイスというものは、実のところ相手をどんなに思って行ったとしても、損でしかないことをご存知でしょうか。近年の心理学系統の本にもよく見られるようになりましたが、アドバイスというのは仮に求められたとしても、しないほうが賢明なのです。例えば、アドバイスというものは、与える側と与えられる側という構図ができます。この上下関係が問題ですし、親身になって行ったアドバイスを受け入れてもらえなければ、その時点でイラっとするのは目に見えています。「〜すべきだ」「〜してはいけない」という強制を働かせるようなアドバイスだと、特に腹も立つでしょう。もっとも、「信号を無視して飛び出してはいけない」といったような瞬間的かつ命に関わるようなものは強制的に従わせるべきかもしれませんが、「お酒を飲んで運転してはいけない」というラインだと、どう考えてもやめておいた方がいいにも関わらず、アドバイスするだけ損になります。

 

まさか、と思うかもしれませんが、アドバイスには大抵以下のような側面があることを確認していただきたいのです。

 

 

アドバイスはするだけ損ということがおわかりになりましたでしょうか。人の目を気にして、いい人でいたいと思うだけに、相手に親身になり、アドバイスをせっせとするのはもうやめましょう。それは一種の病気です。アドバイスしたがり人間というのは、自分は正しくて、優しくて、偉いと思っていますし、いまはまだ思っていなくてもズンズンそのようになり、しまいには誰からも嫌われる存在になります。本人は最高にいい人だと思いこんでいるままに。相手をコントロールするのが当たり前と感じ、そうしていることもわからなくなり、アドバイスに従わないことに怒りが込み上げ、アドバイスによって起こった責任を追求されれば、普通の人同様に怒りだす。いい人になるため、という偽りの看板を掲げて、知らず識らずのうちに誤った道に入り込むのがアドバイス好きなのです。ですので、どんなに頼まれたってアドバイスするのはやめましょう。不確実性があることには答えを述べないのがベストです。

 

アドバイスの代わりに

 

とはいえ、アドバイスを断固拒否して相手を突き放せといっているのではありません。もちろん、一定程度突き放さなければならないのですが、突き放すにしてもちゃんと事情を述べます。「アドバイスしたいけれど、解決法が確実とはいえないから責任は取れない。だから君の意見を尊重したいんだ」などといって、私の意見を聞こうとしないでくれと伝えることです。このときに、相手にどうしたいか質問したり、共感を示すことで十分に「いい人」という評価は守れます。いやむしろ、アドバイスしないからこそ、聞き役に徹するからこそいい人になれるかもしれません。

 

困っている人の手を引くのでも、支えるのでもなく、すぐそばに立って見守るだけにする。ノータッチであり続けることが、最高のアドバイスと真にいい人であるための方策なのではないでしょうか。

 

人の目なんか、気にしない!ために

 

本書は完璧主義のほかに8つ、「いい人」が犯す大きな行動の間違いについて論じています。その間違いは、自分の人生も、他人の人生も破壊しうるものです。いい人であろうというのは美徳ですし、学校がしきりに教えてくれますが、いい人になる方法は教えてくれません。各々が思い描く「いい人像」のために努力しなければならず、結果として多くの人が間違った努力を重ねて、人生を壊してしまうのです。本当にいい人であるために、捨て去るべき事柄とノウハウ、捨てる場合の対案がわかりやすく掲載されております。

 

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