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地理学史とはなにか

地理学史とはどういうものかざっくり知っておく

地理学史は血の通った、実におもしろい世界なんです

 

このページを読んでいるキミは、きっと地理学の世界に身を置いていると思う。そうでもなければ地理学(史)なんて言葉を検索すらできないから、すぐにわかる。どうしてここにきたかもお見通しだ。試験・レポート・課題に困ってきたのだろう。コピペできないかと思って探してみたのだ。また、コピペしたくなる理由もわかっている。

 

地理学史の授業は眠いのだ。

 

恐ろしくつまらない。地理学の世界では基礎教養として、入学直後の学生に地理学の興り(おこり・はじまりのこと)から、現代までを教え込む(はずだ)。でも、教えてくれる先生は大体が退官間近の大教授で、それゆえに現在のことを語らない。というよりも、現在のことなんて若い教授でも恐ろしくて語れない。学会に同じ研究者がいるからだ。その研究者たちの手法や考えを否定すれば、狭い地理学の世界だから、面罵(めんば・直接バカにすること)するのと同じことだ。その場で取っ組み合いのケンカがはじまるのは間違いない!だから、誰も現在の地理を語ることはないし、地理学はあまりに広範囲なため、すべてを語れる先生はおそらく存在しない……。諸分野から50人くらい連れてきてもまだ全然足りないかもしれない。

 

さらにさらに、地理学の醍醐味「自分の興味のあることが自由に研究できる」という部分が薄れる。誰かがこんな本を書いた、それを受けてどうなったということが、聞いたこともない人物名が次々に登場し、とても疲れる。知らない人同士が共通の知り合いの話で盛り上がっているようなものだ。「除け者感半端ないって!」なのだ。どだい楽しいはずがない。よって、地理学史というのは不可解で、ときにムチャクチャで、眠たくなるものなのだ。これはもう、どうしようもないかもしれない。

 

加えて、あまりに巨大でつかみどころのないものを、授業っぽく教えようとするから無理が出る。そこで、各方面からボコボコに怒られる覚悟で、皆さんの興味が薄れて4年間睡眠学習に専念せぬよう、暴論としての地理学史の概要をまとめることにしたわけであります。スマホで同じステージをぐるぐる周回して暇を潰すくらいなら、ぜひ読んでもらいたい。そして、こういうページを読んでも怒らなそうな教授に紹介してもらいたい。地理学史は、為政者、学者、市井の人々の血と汗と、臭いと欲がうずまく、2サス(2時間ものサスペンスドラマ)顔負けの「とてつもなくおもしろい世界」だからだ。つくりものの筋書きなんか相手にもならない、事実は小説よりも奇なりを地で行く世界なのだ。許されるなら、これらの話を実名で小説化したくてしたくてたまらない。そんな教科書なら、きっと君たちも毎回授業で眠るくらいなら、3回に1回くらいは聞いてみようと思ってもらえると確信しているくらいだ。

 

私は、もっとこの地理学史の、怒りと恥と暗闇をのぞいてみたくて、日夜悶々としている。教授たちの学生には明かせない、先人たちの失策譚などを集めたくて仕方がない……。

 

と、長い前置きはこれくらいにして、次のページから早速はじめよう。

地理学史興亡伝 〜 詐偽と喧嘩は地理の華 〜

序説:地理学は明治維新後に生まれた

 

地理学は日本で発足した学問ではないが、地図や気候は文明には必須ともいえる要素であるため、名前はなくとも、細切れに存在していたことは間違いない。そこに、明治維新がなり、近代的な学びの場が形成されるなか、維新から40年ほど経った1907年に京都大学の前身、京都帝国大学で日本ではじめて「地理学」の講座が開かれることになったとされている。

 

遅れること4年、東京帝国大学にも地理学講座が開かれるが、このときの教授はどうやって育成したんだろうなぁ、と思うことしきりで、やっぱりいまの最先端技術のように、とりあえず教えられそうな人を立たせたんだろうと推測してしまうのである。ということは、学問というより実学的で、「地理学でござい」という形になるのはまだ先、ということになる。(地理学史の授業で、このとき教鞭を執ったのは誰か聞いてみよう)

 

え? じゃあ、明治時代に素人(失礼)さんから勉強した人が教授になって(1940年ごろ)、その教授に学んだ人が教授になって(1970年ごろ)、いまの我々を教えている教授は4代目くらいの教授……? この学問、100年くらいしか歴史がないの? と気づいたキミはセンスがある。とても、センスがあるから、次の授業からは眠らずに聞いてあげて欲しい。そうすれば、キミもその分野のエキスパート(5代目、6代目教授)になれるかもしれない。というか、なる。本当に、なると思う。ああ、これでまた敵が増えてしまった。

 

近代地理学の形成期

 

こうして明治、大正とよくわからないまま、半ば貴族らの同窓会として成立していたらしい日本の地理学の世界は、海外の輸入学問を下地にしていたため、日清日露からはじまる2度の世界大戦に挟まれる形で、昭和に入っても結実にはしばらく時間を要したというのが私見である。ご存命の大先生がいらっしゃるので、大きなことはいえないけれども、戦争中に学問にうつつなど抜かしてはおられなかったはずで、研究機関は軒並み戦争のための兵器開発工場になっていたのだから、先生方の努力不足などではなく、劇的な進歩を求めるのは酷というものだと思う。

 

また、戦後も占領下で十分な研究はできなかったろうし、その後も安全保障をめぐって大学と学生(若者)が争う時代が長く続き、1年間ほぼ大学に行かなくても卒業できた、試験も何もなく学位がもらえたなどという話もあるので、これまたラッキー……じゃなかった。酷な時代だったのだ。たいへん、酷な時代であったのだ。それはそれはもう学問的に酷、このへんでいいだろう。

 

ただ、この明治から昭和のなかごろにかけての間、地理学がまったくのぐうたらだったわけではない。地理学の中身は空虚であったけれども、それは生まれたばかりの学問であったからで、実際は地理学の外側から懸命に地理学を形にしようとした著名な先生がおられたのである。

 

福沢諭吉や新渡戸稲造、内村鑑三といえば、なんとなく知っているのではなかろうか。内村は無理か。では、志賀や小川は望むべくもないというところだろうか。全然、構いはしない。知らなくても死なない。せいぜい100年、成人して50年の学問に、歴史を知らぬから出直せなどといわれる筋合いはない。ましてやこれほどまでに技術が高速に進歩し、過去の人物の一生涯の功績をものの数秒で処理する時代にあって、歴史は知っていて欲しいけれども、必須のものでは全然ない。ご安心召されい。でも、福沢諭吉と新渡戸稲造は知っておこう。お札の肖像にいる人と、樋口一葉に取って代わられた武士道の人だ。地理学がまだまだ赤ちゃんだったこのころ、福沢は地学研究のオブザーバーで、つまりは既にとても偉い人だった。内村鑑三は足尾銅山事件や神学系の話題で出てくる超有名人だ。氏は世界を愛していて、その愛情の発露がキリスト教に向いたといわれている。後年、自身が地理を愛していたことを思い出すことがあり、神の道を選んだ自分と、地理を見捨てた自分で葛藤したことがあるという。あれほどの大人物でも、割り切れないものがあるのだから、我々も悩んだり、苦しんだりするのはあたりまえなのかもしれない。

 

そんななか、新渡戸稲造はこの著名な学者たちのなかでも現代的な地理学に迫った人物といっていい。特に農業という視点からの研究が評価されていて、農業と経済の研究が地理的な要素を多分に含んでいたこと、日清戦争で手に入れた台湾という新領土の早急な地域・地理研究が求められていた時期に台湾総督府に着任したことも追い風になっていたと考えられる。こうして地理学は外側の人間たちがせっせとコネて形にしてきたのである。

 

 

文化地理学の立ち上がりと危険な香り

 

私が学んだのが人文地理学の中でも文化地理学や都市地理学だったため、「風景」についての一悶着は学生諸君よりちょっぴりだけ詳しい。かといって、安易に「カール.O.サウアー」がどうの「イー・フー・トゥアン」がどうしたとはじめてしまうと聞く気が失せると思うので、もう少し香ばしい話をしたい。

 

日本の文化地理学の初期に活躍した人物は、詐欺のお先棒を担いでいた! これでどうだろうか。ちょっと聞いてみたいと思ったろうか。私はこれを題材に小説化を目論んだものの、ちょっと頓挫してしまっている。実在の人物名を出すとマズイこと、とても著名な方々が出てきて間接的に国家の体制批判になってしまうことから、ストップがかかっているのだ。明治時代のことでもダメですか。残念至極!でも、諦めてはいないから、どこかで気に留めて、応援してほしい!!

 

さてさて、詐欺のお先棒を担いでいたのは誰かといえば「志賀重昂(しがしげたか)」その人である!といってもわからないだろうし、こういう「恥部」はほかのWikiなどにはまとめられないので、地理学史マニアですら知らなかったりする。なので、心配はいらない。君たちは当面、福沢諭吉だけ知っておけばいいのだ。そして大切にすることだ。使うなら自己投資にしなさい。胃袋のアルコール消毒や、腹の周りに自前の浮き輪をつけるとかではない方向の、だが。

 

この志賀重昂、江戸末期の生まれのナショナリストなどとかっこいい冠詞がつくこともある氏であるが、つまりは日本大好き人間だ。世界を見ながら政治家として活動しつつ、国にケンカをふっかけて冷や飯食いになりかけたり、世界を見てまわった知見から日本と世界を比較するような視点を持ち、日本の風景ってすごい!日本サイコー!!といっていたら、とても偉い学者、代議士として敬われるようになった。乱暴にいえば、こういう経歴になる。

 

志賀氏は南洋研究に通じていたため、日本の南洋、小笠原諸島のはるか東に未知の島があり、どうやら大量のリンが採れて大儲けできそうだ!という話が持ち上がった際に、「どう思われますか」とたびたびメディア(報知新聞等)に取材されている。その都度、行ったこともない未知の島での過ごし方のノウハウを披露し、この存在不明の島を探索するための調査隊派遣時には訓話を行い、万歳三唱で送り出している。

 

でも、そんな島はなかった。なかったどころか、この幻の島でリンの採掘事業や採掘権で一儲けしてやろうと思っていた連中は、どいつもこいつも刑務所に叩き込まれている……。最初は組合だったのに自分で利益を独り占めしたくなって、「存在自体が嘘なのにどこをどう間違ったか」内ゲバを起こして組合が空中分解したり(本物の詐欺師は別にいた?)、看板役として大物教育者の協力を仰いでいたら、この人物も暴走野郎だったようで、別件の国の教科書をめぐる収賄事件で逮捕されてしまった。右も左も詐欺師だらけのヤバい世界。そこに風景とはなんぞや? と問い続けた、文化地理学の第一人者であるところの志賀氏はいたわけである。

 

単に安請け合いしてしまっただけなのか、あわよくばと思ったかは資料が不足していてどうにも判然としかねるが、ありもしない島を国土に編入させ、その採掘調査にともなって金だなんだと揉めに揉め、実刑を食らう奴、別件で消える奴、実在も確認しないままホイホイ国土に編入してしまう当時の国家中枢部(内閣ですよ)、そこに絡んでしまったメディアと、志賀氏。自分がそんなところでお先棒を担いで、もしくは神輿に乗られてやんや、やんやと騒いでしまったとしたら……身の毛もよだつとはまさにこのことである。いまならきっと、社会的に再起不能のボッコボコだ。

 

ここを掘り下げるだけでも、十分地理学史として成立しうる。おもしろすぎる人生だ。明治から大正にかけては、こういういまでは考えられないような杜撰で、どうしようもない権力者たちが跋扈する。そんななかで学問がどう成立し、どう汚されず、大洋に浮かぶ小舟のように乗り越えてきたのか。そういうところへ焦点を当てれば、ボンヤリとした全体像を語るより、ずっとおもしろいものになるはずだ。地理学史とは、学問の歴史ではあるが、それを創るのは人である以上、人物史と捉えることもできる。もし諸君が教授となって学生に教える場合は、こういう視点から切り込んでみてはもらえないだろうか。なんなら私が……いやいや。

 

(つづく)

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