サイトアイコン 3100.work

阿南市伊島と古事記の島産み 〜連絡船航路維持の危機に寄せて〜

「伊島連絡船、故障相次ぎ生活の足に危機」に寄せて

 

徳島県阿南市の沖合にある伊島。太平洋に浮かぶ小島ですが、私にとっては馴染み深い島でもあります。私の育った阿南市津乃峰町は伊島連絡船の発着所があり、児童数減少や高校がないことから伊島に生まれた子どもは決まって津乃峰町まで出てくるか、家族で引っ越してくるのです。答島(こたじま)港の発着所はとてもとても小さなものですが、漁師のおじいさんにアイナメやクサフグの釣り方を教わった、私にとって確かな人の手触りが残る場所です。

 

 

この伊島との連絡船が船体の老朽化によって新造船を用意しなければならない状況で、年間約3000万円の赤字を出している路線であるだけに更新が大変厳しいという話(徳島新聞記事)を耳にしました。ここまでなら、よくある地方の離島、過疎地のノスタルジーを焚きつける話でしかないのですが、この伊島、徳島ないしは日本にとって、ただの離島ではない可能性を秘めているのです。

 

古事記に出てくる島「伊島」

 

古事記をご存知でしょうか。古事記とは、日本書紀とあわせて神話の時代に神様がこの国を造り、その正統継承者がいまの為政者であるということを書き記した古文書です。このなかで、イザナギとイザナミが日本をつくる「島産み(国産み)」の項目があるのですが、そこで造られた島に「伊島」が該当する可能性があるのです。

 

私は大学で地理学を学びましたが、指導していただいたN教授は地理学のなかでも島嶼(とうしょ)の文化地理を専門に研究されておられる先生でした。そうしたなか、ふとしたことで地元にも離島というほどではないけれど不思議な文化を持つ島があったことを思い出し、少し調べていた時期があります。そこで見つけたのが、伊島に残り、かつほかの地域では見られない古代信仰と、古事記の島産みの項目でした。

 

ここで島産みの順序を古事記に記載されている順に(従来説を元に)整理しておきますね。

  1. 淡路島(あわじのほのさわけのしま)
  2. 四国(いよのふたなのしま)
  3. 隠岐の島(おきのみつごのしま)
  4. 九州(つくしのしま)
  5. 壱岐(いきのしま)
  6. 対馬(つしま)
  7. 佐渡島(さどのしま)
  8. 本州(おおやまととよあきつしま)

 

特に古事記では兵庫県にある淡路島が「あわじのほのさわけのしま」として最初に産まれますが、その後順繰りに島を産んでいくのに、どういうわけか急に順番を飛ばして日本海側の隠岐の島(おきのみつごのしま)の話をしはじめるのです。その後、何事もなかったかのように順序よく島を産みを続けます。従来の学説通りにいきますと、以下のとおりになります。下図をご覧ください。

 

この順番がどうにも不自然なのです。もちろん創作された神話でしょうから、不自然なことは当たり前です。それにしても古事記や日本書紀を描いた人たちは、「大和(大倭・おおやまと)」の世界が一番偉大だといいたいからこそ古事記を創っていたはずで、淡路島、四国……といったあと、自分たちの本拠、最も最先端で一番大きく一番偉い島、秋津洲(本州)を跨ぐようなことをして、隠岐の島を紹介するかなあ? という率直な疑問が産まれたわけです。

 

古事記では本州のことを「大倭豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)」なんて仰々しく、さもありがたそうに書いているんですよ。四国は「伊豫の二名島」なんて書かれて、「伊と豫のふたつの名前を持つ島です」と簡単にまとめられているのに。九州なんてもっと酷いですよね。そんな最高の我が大倭国の頭上を跨いで通って許されるのか、と思いませんか? まあ、思わなかったとしても、ここは思っておいてください。そうしないと次に進めませんので。で、思っていただけたとして次に進みますが、跨がないパターンがあるとしたらどうなるだろう? ということなんです。

そこで出てくるのが伊島です。伊島を古事記に書かれている三子島(みつごのしま)と比定すると、

 

 

この図のようにすっきりするんですね。綺麗にぐるっと時計回りになりました。これが当時の大和の支配範囲を囲んだものなら、とてもわかりやすいですよね。で、ここに入っていないから、神話のなかで九州南部や本州東部へ出掛けていったのではないかと考えたわけです。いかがでしょう?

 

と、ここまでは事実と妄想が入り混じっているわけですけれども、ここからは地理的着想に加えて、物理的に見ていくことにしますね。

 

「おきのみつごのしま」なのに、三つじゃない隠岐の島なの?

 

私が学生のころ、故あって隠岐の島へフィールドワークへ出掛けたことがあります。松坂牛より高級な隠岐牛の飼育現場をちょっと見て、手伝いの真似事をしたり(あと、A5ランク以上の牛さんを食べたり)、地域おこしのために若者が集まってきている海士町の実態を学びました。なので、敵意とかそういうものは一切ないどころか、大変よくしていただいて感謝と好意ばかりなのですけれども(海士町の課長さんありがとうございます)、行ったからこそわかる、行かなくても地図を見ればわかる、隠岐の島は3つの島じゃないという厳然たる事実です。

 

 

この事実をどうするか。江戸時代に日本の歴史を研究し、現代においても古事記・日本書紀研究のベースとなっている本居宣長らの説では、隠岐の島は島前(どうぜん)と呼ばれる西ノ島、中ノ島(海士町)、知夫里島(知夫村)があって、「これを3つと数えます」といっているようです。いやいや、ちょっと待ってくれ!一番デカい「島後」はどうなる。隠岐の島という名前を冠した「島後」を除外って無理筋も無理筋じゃないか!と、思いませんか。合計4つある隠岐の島。島後を数えないなら、島後が改めて別の島として数えられてもいいはずです。それくらい大きい島じゃないですか。でも、除外されているんです。なにかが妙な気がしてまいります。

 

加えて本州を跨いでしまう。やっぱりこの島ではないのではないかという思いを強くしませんか? さらに、隠岐の島という離島は、対馬や壱岐と違って、大陸や朝鮮半島からの九州ルートからは外れます。古代からここを拠点として行き来していたとは考えにくい。また、鬱陵島から竹島、隠岐のルートがあったとすれば古事記に記載する理由はわかりますが、それならば竹島等も国産みに加えなかった理由がわからなくなってきます。離れ過ぎていた? 確かに、竹島や旧竹島(鬱陵島)は韓国(からくに・外国のこと)の領土に近いです。

 

でも、古事記には因幡の白兎の話はあるわけですよね。ウサギが離島からサメの背中を渡っていくあのお話です。当然、イザナギとイザナミが島を産んだあとにこの話に出てくる大国主があらわれたはずですから、隠岐の島は初期には大倭の一員ではなかったけれど、後々加えられたため、古事記の説話として盛り込まれたと考えればつじつまがあうように思いませんか? ちょっとややこしいでしょうか。ややこしいのでスパッと原点に還りましょう。

やっぱり、突然本州を跨いでしまうという点だけでも、十分に不可解です。

 

そこでさらに原点の、伊島に戻ってくるわけです。伊島はきっちり「伊島」「前島」「棚子島」の3つの島で構成されます。さらにさらに、この伊島のある対岸、私の出生地津乃峰町のお隣は見能林町という町でして、ここには天照大神生誕の地とされる神社があります。黄泉の国から戻ってきたイザナギが、禊をするのに潮の流れが速すぎたからとちょうどいい場所を探し歩いて、現在の見能林町の打樋川(うてびがわ・この川は津乃峰町に向かって流れ、沖には伊島があります)で禊をしたところ、「アマテラス・ツクヨミ・スサノオ」が産まれたといわれております。もちろん、古事記の世界は徳島じゃない!という方もおられるでしょう。だとしても、イザナギが禊をして、三つの貴い子が産まれたという部分は古事記に残っている事実として共有できますよね?

 

だとすると、「三貴子」と呼ばれるこの神々、「三」貴「子」です。3つじゃないとダメなんですよ。隠岐の島は3つありません。禊をして産まれた神々との関連性も薄い。沐浴をして流れ出たケガレから産まれたなら、川の先の島を神と解するのはそこまで無理はないことと思います。そして、この伊島には他の地域では見られない神々の名前で三柱(みはしら)居られます。それぞれ、

とされております。さて、これでまたひとつミッシングリンクが繋がったと思いませんか? そうです。「奥」です。これで「隠岐」「沖」と同じ「おき」と読むんですね。そして、この神々を祀る神社の中心の神様はスサノオだそうです。(スサノオ=ポセイドン説を訴える私にとって、研究せざるをえない話ですが、いまは置いておきましょうかね)

 

この三柱のいわれとしては、伊島の漁師が何度捨てても網にかかる奇岩を祀ったところからはじまるといいます。伊島には相当に古い時代から人が住んでいた痕跡があるそうですが、十分に調べられておらず、度重なる津波に洗われて多くの古文書が流出したものと考えられ、物的証拠と人間の記録の整合性を確かめるのが難しくなっています。(津波=ポセイドン=スサノオ……)

 

いま、この島の連絡船が途絶え、島民がいなくなれば、そう遠くない将来起こるであろう震災と津波によって、あらゆる文化と歴史が消えてしまうかもしれません。いまが最後のチャンスになるかもしれないのです。お願いばかりで恐縮なのですが、このことをぜひ多くの方に知っていただき、古事記の世界が阿波起源であるかどうかに関わらず、島民の足の維持や十分な学術調査が行える環境を作れればと強く願っておるところであります。

連絡船の危機に寄せて。
2018年9月 サトウユウト

 

追伸:(蛇足)

ちなみにですが、古事記(712年)にある隠岐の島は3番目に産まれていますが、日本書紀(720年)では5番目になります。しかも佐渡島とセットです。ここで編纂者の勘違いがあったか、意図的に改変がなされたと見るべきかもしれません。陰謀論じみていて嫌なんですけど、政治的に都合が悪ければ公文書は改竄されるものです。歴史は勝者が描くといいますからね。その後も日本書紀の巻によってセットになったりわかれたり、6番目にされたり、4番目にされたりと混乱があります。やはり意図的か、間違ってしまって、「これは隠岐じゃなくて伊島だぞ」と直したのに、次の役人がまた「隠岐なのになんだこれは!」と直したりしたのかもしれません。

 

さてさて、ここまで四国の地理に詳しいとすると、やっぱり古事記の編纂時には四国の、特に徳島県の人間が相当力を持っていたと考えられるのではないでしょうか。だって、同じ徳島県民でも「伊島」なんて阿南の人間の一部くらいしか知らないかもしれないくらいですから。国家的にかなりこの地域が重視されていたか、よほどの重鎮がいてご機嫌を伺わないといけなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。ということは、やはり古代日本の成立、古事記の世界は徳島県……?

この文化、歴史を足がかりに観光等に活かして、過疎問題や連絡船の修繕費、年間3000万円の赤字体質も改善できればよいのですが……。まずは広く知っていただくところからはじめたいと考えているところです。ぜひシェアや詳しい方、興味をお持ちの方へご紹介くださればと思います。

モバイルバージョンを終了