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私が文芸誌『徳島文學』と徳島文学協会を応援する理由

私が徳島文學と徳島文学協会を応援する理由

 

「小説など」と唾棄して生きてきた人間が、一体どうして文学協会なんかに名前を連ねているのか。ほとんど顔も出せないような体なのに、「金持ちの道楽かなにかか」といわれてしまいそうですが、そうではありません。少なくとも、お金はない。そこだけは確かです。私は個人ではなく、法人協賛という形で参加していますけれど、これは完全な私費で、それどころか親族の会社の名前を許可を得て使っているだけで、自分の所属する会社の宣伝には一切ならないのです。法人会員になると会費が倍です。なのに、なぜそんなことをしているのか。病身の果てに合理的判断ができないほどに頭がやられてしまったか。そんなところかもしれません。

 

突如として雑誌『近代説話』と司馬遼太郎のはなし

 

ま、私の病気のことはどうでもいいのです。どうして徳島文学協会に参加したのか、主題はここでしたね。理由として「郷土を応援したいから」といえば見栄えもしますでしょうが、それは半分もありません。説明が面倒なので表向きはそういうことにしますけれど、本当の理由は司馬遼太郎がかつて運営していた文芸誌の話を聞いたことがあるからなのです。雑誌名を『近代説話』といいます。司馬氏はどうやらこの雑誌を文学の実験場にしたかったようです。実験場といっても、素人作家を一人前にするための学校的色彩ではなく、従来の小説に見られなくなってきたものをプロの品質で書くことを目的としていたようです。司馬研究の専門家どころか文芸にまるで明るくない私にはその意図を推し量ることなどできませんけれども、実務という部分についてはわかります。本を出す以上、どんな経路をたどろうとも編集作業はつきまとう。この編集というものが七面倒で大変なのです。

 

私も学生時代は趣味の同人情報誌にはじまり、社会人になってからはプロとして本を作ってきましたが、いざ編集、ましてや原稿も自分で書くとなると邪魔くさいことこのうえなく、常日頃作業中に「いまこの瞬間に辞めて消えてしまいたい」と思うものなのです。どんなに本に憧れていたとしても、です。司馬氏も御多分に漏れませんでした。ところがその意に反して『近代説話』は当たってしまいます。雑誌に掲載された作品と、それとは別に掲載作での受賞ではないものの参加していた作家、あわせて2名、立て続けに直木賞作家が出てしまったのです。創刊から5、6号あたりで面倒くささが先に立ち、とっとと辞めたいと思っていたのに直木賞。その後も3名も直木賞作家を出し、司馬遼太郎以下、都合6名が直木賞受賞者ということになってしまいます。創刊から6年程度の実働期間で掲載作品の受賞が3作。とてつもない成果です。雑誌参加者のほぼ半数が直木賞作家なのですから、文学賞やら商業化やら権威的なものに背を向けて実験的小説の反応を見るという目算は脆くも崩れ去ります。こうなれば文芸の世界で「直木賞作家排出の大雑誌として生きていけ」という空気ができてしまいますから、さぞ居心地が悪かったでしょう。それを嫌って打ち立てた雑誌なのに、真逆の状態になってしまったのですから。自分の生み出したものが、自分の意にそぐわず、自分を縛り上げる。苦痛も苦痛、これはたまらない。

 

ここまでいかずとも雑誌を出すということは、自縄自縛です。やめときゃよかったの連続だったりします。そんな面倒くさいことをいまの時代にやると決めたこと。これは見上げた根性だ!といわざるをえません。創刊の音頭をとられ、運営なさっているみなさんは押しも押されもせぬビッグネームで、なにを上から目線でいっておるのだとお叱りを受けそうですけれども、あの文芸編集部の鬱々とした空気を(横目で見ながら)知っている身からすれば、また、原稿が集まらない恐怖や運営の不安を経験した身としては、敬語、敬称をつけ忘れるほど興奮し、万歳三唱、応援せずにはいられないのです。ですから、会費を倍額ポケットマネーで出してでも参加するわけです。一度も会合に参加できなくても、応援はしたいのです。徳島だから、ではないんですね。努力をしているから、応援したい。そういった同期な訳です。

 

発表の場をつくるだけでもそうなのに、維持することはずっと難しい。その苦労を、微々たるものでしかないのですが、少しでも和らげて差し上げたいがためなんです。

 

 

蛇足:近代説話の直木賞作家量産理由を考える

 

ところで、一体なぜ『近代説話』からこんなにも直木賞作家が出たのか。私なぞには理由はわかりません。わかりませんが、参加者の顔ぶれや意図から推し量るに、書く側と与える側のすれ違いがあるものと思われます。

 

文学賞というものは、与える側の論理で成立しています。選者たちの思惑です。わかりやすくいえば、好みといってもいいでしょう。文学とはなにか。抑圧や否定、社会から脱線したスットコドッコイがやるもの、という空気がどことなくあるわけです。ひとくくりにしてしまえば、反社会、反体制、反権力、アンチの世界なわけです。もちろん、権力、権威、社会の側の文学もありますけれども、伝統的にアンチがどこか好まれる。そこへきて「文学賞なんて狙わない。失われてきた作品の力を復権する」「文学賞受賞者は邪魔だから出て行け」なんていう雑誌と、そに理念に共感して投稿する一線級のプロが集まってきたのが『近代説話』なんです。権威に背を向ける一流作家たちの著作に、権威である直木賞、つまりアンチである文学の王道(の選者たち)が酔ってしまうというすれ違い、あべこべ、ままならなさがあったのですね。まるで親離れしたい子どもと、いつまでも心配な親のような関係。拒絶すればするほどに愛は深まり、心配も増す。そんななかで直木賞作家が続出したのであろう、と考えます。ここにもひとつの文学性が生まれていたわけです。

 

司馬氏は辞めたいけど、参加者の編集能力が高すぎるためになんだかんだ一生この雑誌は発行されていくんだろうなと思っていたようです。ところがところが、創刊から11号で廃刊。これまた意に反する形で一撃もらってしまいます。世の中はままならないもの。だからこそ、アンチな文学がひときわ輝き、好まれるのかもしれませんね。

 

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