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日本近代SFの父、海野十三とその魅力

スライダーの石碑画像は、福島2丁目の四所神社向かいに移築された江戸川乱歩贈の海野十三碑と、徳島城中央公園の追悼碑です。

海野十三とはどういう作家か

海野十三の来歴

 

海野十三(本名、佐野昌一)は1897年、明治30年の徳島県徳島市にある徳島本町の生まれで、のちに祖父の家のある1kmほど東の徳島市安宅1丁目28番地(現在の町名です)に移りました。この出生地についてはかなりの混乱があるようで、生まれた場所=生家(生まれ育った場所)と一致するならいいのですが、現代のように病院で生まれた、子どもができたので大きな家にすぐ引っ越したとなると、生家が混乱するんですね。この混乱が特筆するほど酷いのが、当初から本人が「間違えてますよ」言い続けてきたのに、1990年刊行の『海野十三全集』の月報にすら「徳島市安宅1丁目生まれ」とあることなんです。また、祖父宅で育ったのは父が早逝したからだと書いてある資料もありますが、海野が通っていた福島小学校を3年のときに神戸への移住から転校するのですが、神戸へ移ったのは祖父が医業を高齢により廃業(縮小?)することにしたため、(遊び好きな)父の収入一本に頼らなければならなくなり、仕事の都合もあって稼ぎのいい都会へ移ったようなのです。つまり、この時点で父親は亡くなっていないんですね。亡くなっていたなら神戸へ行く理由がありませんから。

 

ではなぜこのような混乱が起きたのか。私が推察するに、この後、小学6年のころに海野は母親を亡くしています。これと混同されたのではないかと考えます。海野は生涯、父の遊び人根性を疎ましく思い、後添えとなった継母との関係もあまりよろしくなかったようです。結果、徳島時代の話は幼少ゆえに乏しく、神戸時代は辛い思い出なのかあまり語らなかったため、海野の足跡を辿ることが難しく、後年の研究者が少ない情報をつなぎ合わせて創作してしまったのではないかと思われます。海野十三は神戸に移り住み、そこからいきなり早稲田大学に入り、逓信省で働きながら作家として活動、太平洋戦争によって中断という流れですから、背景がかなり飛び飛びなんですね。

(海野十三が幼少期暮らした祖父宅跡周辺・徳島市安宅1丁目28番地付近の幹線道路)

戦前戦後の作家といいますと、ついついイメージとして戦争に翻弄された不遇の人ということになりがちですが、海野自身はヒトラーの思想を大いに受け入れておりまして「戦争なんて、クソッタレ」といいがちな文壇界隈の人間ではなかったようです。検査で徴兵不適とされたのに戦艦に乗ってラバウル方面へ行くことが決まってとてもよろこんでいたといいますから、戦争で国のために奉じることを是とする考えの人物だったようです。このあたりも戦後日本でどうにも評価されなかった理由なのかもしれません。海野は敗戦に打ちひしがれて一家心中を目論んでいたわけですし、根は相当に深いようです。ただ、海野の作品を見ていると、そうした国のためといった全体主義に浴していながら、戦後徐々に敗戦の現実を受け入れ、和らいでいく揺蕩(ようとう)も見て取れます。そこがいいところだとも思うわけです。思想的に変化していく作家の人間臭さが作品に出ている例は、ほかに少ないように思いますし、与えられた情報から粛々と現実を分析、理解し、持論を転換できる知性と柔軟さは、その生み出した作品の気風に表れているように思います。海野作品に触れるときには、政治思想が現代に適さないなどと狭量なことはいわず、この揺蕩を含めて、作品と作家全般を眺め、評価していただければと思います。

 

 

なぜいま海野十三か

 

地域の文学を掘り起こし、価値を見出し、盛り上げたいのなんの、という理屈を積み上げることは簡単ですが、本心としては住んでるとこがすぐそばだったから、です。安宅3丁目に事務所を構えたことで、風の噂に郷土に時代を創るだけの独創性を持った作家がいたことを知り、だったらちょっと読んでみようと。それを紹介してよろこんでもらおうじゃないか、という具合です。なので、のっけから信念も正義もありません。近いから、気に入ったから。それだけなんですね。動機は大したことがありませんが、自宅に全集を構えてしっかりと読み進めるくらいには本気です。いまどき文学部の専門学生でもそんなことしないでしょうから、姿勢だけは立派とお誉めいただければなあ、などと思っております。

 

与太話はこれくらいにして、なんといっても海野十三の作品は横溝正史作品に引けを取らない怪作揃いなのです。横溝の金田一シリーズのような傑作に食い込む作品が全集内にはいくつも見られますし、いまでこそ稚拙と感じられるような描写やトリックもありますが、それは江戸川乱歩や横溝以降の歴史的な傑作中の傑作と比較しているからで、同時代、手探りで探偵小説(推理小説)を描いていたことを考えると、表現者としての力の差をまざまざと見せつけられるような思いです。それどころか、戦中戦後の混乱期、情報も乏しい中で描かれた作品群は、知性の面で現代人をあざ笑うかのようです。

 

このまま後塵を拝すばかりではいけない、まずこの忘れられた乱歩、横溝の同時代人を知らしめ、そこに追いつき追い越さねば、「60年、70年後の人間として恥ずかしいぞ」という思いもありまして、海野十三のページの作成に取り掛かった次第です。楽しんでいただくと同時に、皆さんの知見をぜひお貸しいただければと存じます。

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