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人文科学と「それってなんの役に立つんですか?」の対立を解消したい

学問は基本的にいらないものだということ

「それってなんの役に立つんですか?」

 

ブラックホールが撮影されましたね。世界の望遠鏡を繋いで、擬似的に地球サイズの望遠鏡として、いままで存在が確定されてこなかったブラックホールの実在が確かめられたようです。大変にめでたいことです。でも、やっぱりといいますか、「それ、なんの役に立つの?」

 

 

なにかの役に立つことは本当に必要でしょうか。例えば動物や植物は、高度な計算もできなければ言葉も話しません。宇宙の存在なんて理解しないでしょうし、心理学だの経済学だのなんてもっと知りません。我々人類だって、ほんの数百年前まではそれで全然大丈夫だった。ただ田畑を耕したり、漁をして生きるだけなら、本質的に義務教育だって不要でしょう? いままではそれでどうにかなってきたし、たぶんこれからもどうにかできる。でも、なんだかんだいって社会は高度化してきて、それじゃダメって雰囲気になりました。

 

宇宙のことが少々わかったって、明日の給料が増えるわけじゃありません。単に知的好奇心が満たされるだけです。わからないことがわかり、もしかしたらよりよい生活ができるかもしれないというだけです。直接的になにかが得られるようなものではありません。でも、学問なんてそういうものです。基礎研究なんてその最たるものです。「理屈は解明しました。役にた立つかどうかはみなさんで考えてください」というものが基礎研究ですから、「役に立つ方法も考えろよ」というのはちょっと酷です。その辺は基礎研究の専門家とは別に、役に立たせる専門家に任せるべきですよ。なにもかも学者に押し付けると、研究すらできなくなっちゃいますから。

 

そんななかで、いま危機に瀕していると勝手に思っているのが人文・社会科学です。「人とは?」なんて話をすると、ちょっと気の触れた人だと思われますし、社会の分析なんてしたところで時代の流れが速すぎて、ただの歴史の記述に終わりがちです。こうして、理系科学以上に「それってなんの役に立つんですか?」といわれてしまうのが人文科学系なんです。

 

でも、ちょっと待ってください。人文科学というものは、いわば「病院」なんです。平時、健康なときには何の役にも立たないのです。普段使わないから、いらないというのは早計です。例えば、私が好きなもので恐縮ですが、柳田國男の民俗学、アドラーの心理学や三木清の哲学、ドラッカーの経営学、幸田露伴や寺田寅彦の評論に、志賀直哉の文学……。こんなものは、あってもなくても、命に関わることはありません。でも、生きることに迷ったり、困ったときに、民俗の歴史の壮大さに思いを馳せたり、最新の心理学が悩みを解消したり、哲学的思想に救われたり、仕事や経営の難問をやわらかくほぐしたり、文学や評論が豊かさを与えてくれたりするかもしれません。人文科学とは、「人間のための」病院なのです。ですから、普段は不要です。

 

しかしながら、普段いらないから、もういらないとはならないでしょう。人文科学には、困っている人を助けるために、先々困るかもしれない人たちのために、代わりに悩んでくれている学者がいるのです。どうしても習慣的に触れていなければ不気味で敬遠されがちですが、その著作や理論を読んでみれば結構日常に役立つのが人文科学だったりするのです。私自身、なんどもこういう研究に救われてきました。そのなかには「なんてバカで無駄なことをしているんだ」と、学生の時分に唾棄していたものもあります。無理解でバカなのは私だったわけです。結果、大きな損をしてまいりました。

 

いま、機械とAIが人間の仕事を奪っています。奪う、というのは語弊があるかもしれません。替わってくれるようになりました。一方で、人間の仕事から得られる満足感、これは間違いなく奪われてしまいます。これから人間はどうすればいいのか。新しい仕事を考えて、そこで満足感を得ればいいのか。それとももっとほかに人間を満たすものがあるのか。

いま、かつてないほどに、「人間」というものが見直されています。人間が人間であるとはどういうことか、満足感なき人生をどうすればいいか。そういった問題に答えてくれるが、人文科学なのです。

いま、この瞬間役に立たないから、明日の給料が増えないから、いらないだなんてとんでもない。

本当は、現代に一番求められているものが人文科学なのです。

 

私は、この人文科学の活用法をずっと考えています。基礎研究とは別に、その成果物をどう世の中で活用してもらおうかと考え続けてまいりました。そのひとつの方策が、「じんぶんラボ」です。人文科学の成果を、研究者、活用者、学びたい人で共有し、改良していく、社会人のための学びの場。

 

こうかくと胡散臭いセミナーみたいになっちゃいますが、大人になると学校に行きませんから、知識の仕入れ口、アップデートする場所がなくなっちゃうんですよね。だから、民間で作ろうっていう話なんです。公的機関だと、くだけた感じでやれないので、もっと自由に、やわらかに大人が学べる場所を、地域ごとにつくろうと。

 

いまはまだ走りはじめたばかりですが、徳島県でいっちょがんばってみようと思いますので、こんな話がしたい、聞きたいなどございましたらご連絡ください。私もいろんな人が持っている叡智の力をお借りしたく存じます。

 

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