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日本の「食」は安すぎる

 

高くなれば食品偽装や無許可農薬を使う人が減るかといえば、それはわかりません。少なくともゼロにはならないでしょうし、なんなら単価が上がれば「盗んじまったほうがはやい」と思う人も出てくるかもしれません。食に関する犯罪がどうなるかはわからない。

 

でも、やはり、日本の食は安すぎる。特に食事が安すぎる。食べるものが安いことが、すべての物価を押し下げ、すべての日本人の生産性や給料、労働環境を押し下げている。そんな気がしてならないのです。

 

先日、官房長官が3000円のパンケーキを食べて「高すぎる」と批判されていました。まあ、そりゃそうでしょう。自分で焼けばもっと安い。でも、場所代も入っていれば、料理人の給料、技量に対する付加価値、家庭では使えないような素材を用いていたりすれば、特段高いものでもないはずです。本書を手にしたのはこのような、「他人の食べ物の値段すら安くしろ」という世間の風潮に、おや? と思ったからです。

 

念のために申し上げておきますが、私は別にお金持ちでもなんでもありませんし、良識人を気取るつもりありません。ただ単に、3000円もらってもあの店のパンケーキは焼けないから、高いと思わないというだけです。また、私が3000円出してパンケーキを食べるかどうかとは無関係です。多分、食べません。貧乏人なのでね。

 

さて、余談が過ぎました。

話を戻しますと、それをつくるのにあなただったらいくらかかるか? というのがひとつの価値基準になるべきだと私は考えます。それは食に限らず、文章でも絵画でも音楽でも同じです。私はまったくこのあたりの才能がございませんので、こういったものの価値は原則無限だと考えます。つまり言い値となるべきだと思うのです。でも、私にとって払えるものは限られておりますので、その範囲にあればよし、なければ諦める、それだけです。安くしろとは極力いいたくないのです。それは、自分が欲しいと思ったものの価値のみならず、その品を選んだ自分自身も安く見積もり、貶めているように思えるからです。

 

ただ、そのように感じる人は少ないのかもしれません。買うつもりがあれば多少の価格交渉はわかりますが、買うつもりもないのに安くしろ、あれをこう変えろ、それはけしからんという人をよく見かけます。創作の世界で顕著ですが、食の世界にも上記のように見られることです。

 

食というものは、人間に欠くことのできないものです。食べるために働いているといっていい。動物は食べるために生きていて、生きるために食べる。人間社会は貨幣経済と分業性が発達したせいでそれが見えにくくなっていますが、究極的には食べられればいいわけです。その究極の食の価値を低く見積もることは、とりもなおさず、自分を安く見ること、人生を安く見ることではないかと心配する次第なのです。

 

自分を安く見る人は、輪をかけて他人を安く見ます。誰でも自分が一番かわいいのですから当然です。究極の存在である食が安くなればなるほどに、日本人は人間的、生物的に貧しくなるように思います。

 

これを変えることは、もちろん簡単なことではありません。しかしながら、昼飯が500円しないというのはどういうことか。1時間働けば一食分稼げるなら、人間は1日3時間働けばよいことになります。しかし、実際は8時間以上働く。人間は3食食べればいいのだから、時給はもっともっと薄めて、安くしたって構わない、ということになる。3時間働いて1食食べられるくらいにしたっていいんじゃないの? という話すら出てくるかもしれません。

 

こんなチキンレースは馬鹿馬鹿しいですよ。もし仮に、食の値段が明日から3倍になったら、多くのかたは今の職場で、今の給料では働きたくなくなるでしょうし、働いたら損だと思うはずです。食べられないのに働くなんてアホらしい、ということになるからです。

 

でも、本来それがあるべき姿です。500円は高いからとスーパーで290円のお弁当を買うのではなく、500円が高くなくなるように働きかけるのが正しいあり方だと私は思います。そうしなければ、日本の食も、職も、人間性も守れないでしょう。せっかくの豊かな食文化が消えてなくなってしまう。バブルのころの狂乱がいいとは思いませんが、切り詰める方向へのチキンレースを続ければ、あらゆる物事が簡略化されていきますよ。最終的に、人間に必要な栄養さえあればいいからと錠剤を食べるのか、というところまで行き着くやもしれません。このAI・機械化時代に、どうして人間が逆立ちしたって勝てない「そちら側」へ寄せていくのか。こりゃ悪手以外のなにものでもないでしょう。

 

本書でも扱っていますが、豆腐ひとつとってもそうです。スーパーの特売で恐ろしい値段になっていますが、本来豆腐は38円! なんて値段では買えないのです。普通に大豆とにがりで豆腐をつくれば、大豆1キロあたり10丁もこしらえられません。しかし、大豆油を絞った後の搾りかすである大豆粉などを用いてコストダウン(?)したり、にがりの主成分であるマグネシウムどころか固めるための薬剤を使って凝固を促進してやれば、5倍以上の豆腐ができるそうです。これは豆腐の専門サイトなんかでさも手柄のように書かれているんですが、果たして本当なんでしょうか。

 

5倍多くつくれて、味や栄養がそのままならなにもいうことはありません。しかし、もうお気づきのように物理的に考えて、5倍以上つくれるということは、中身は1/5ということです。4/5が水分といってもいいかもしれません。これでは水っぽい豆腐ができるのもうなづけます。豆腐はウイスキーやカルピ○じゃないんですから、薄めることを想定して作ってないんですよ? 現代科学の勝利というより、商売上の理由ですよね。その味に慣らされてしまえば、安くて効率的なものを売れる。嘆かわしいのですが、これが現在の食の世界なんです。まあ、私も多くの場合、工業的な食に頼っているので人様を批判する立場にはないのですが……。

 

昔は夕食や晩酌に冷奴が出ていました。でも、いまスーパーで買える特売の豆腐でそれをやろうとしても、食べた気がしないはずです。昔の豆腐は5倍以上、重たく腹に溜まり、食事として成立していたんです。おからだってそうです。薬品の進歩ではるかにたくさんつくれる上に、大豆粉でつくるのですからそもそもおからが出ません。おからパウダーなんて一時期流行りましたけれども、それだけ我々の食卓からおからが遠ざかった証拠だと私は感じています。東京にあった下町の豆腐屋さんは、朝の4時前に通ると山ほどおからを積んでいたものです。大豆の油分をたっぷり抱えたおからですから、あれだけ食べても、米粉のパンに混ぜても、美味しいのは当然です。

 

豆腐ひとつみてもこうなのです。38円の豆腐は本来、ありえない。1丁つくるなら200円、いや300円するのは当たり前。あらゆる食品の値段が異様に安い日本だからこそ、いろいろな場所にひずみが出てきている。そんな気がしてならないのです。

 

どうも説教じみてしまいましたが、これを機会に食と文化についての本をお読みになられてみてはいかがでしょうか。

  

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