遊びは「悪」なのか
遊びは悪いことなのか
人に迷惑をかける愚劣な遊びは別として
かつて、遊びは人間だけに許された特権だといわれておりました。ロジェ・カイヨワに代表されるように、遊びについて真摯に考える人もおりました。しかし、現在の日本にあっては、遊ぶことは総じて悪いことだとされています。遊ぶ暇があれば働けというわけです。それが効率的でよりよい世の中、よりよい人になる近道だと。野生動物たちは毎日真剣に生きているだとか、機械は休まないだとか、効率や成果を重視して、遊びを排除しようとしてきたわけです。
しかしながら、ネコやイルカはほかの動物をいじめて遊びますし(場合によっては殺してしまう)、別に人間に与えられた特権でもないわけです。また、休まずに働き続けられる機械の特権は、人間にはありません。動物的な生き方を捨てろという指摘は、結局のところ動物でも機械でもない、人間というどっちつかずのできそこないを生み出しはしないかと思うわけなんです。
どうしてここまで遊びが否定されるのか。これはつまり、口では「成果」や「結果」のためにがんばれ、効率的にやれといっているのに、その実、そこにいたる「過程」を評価しているからこそ起こることです。結果より過程を重視しておいて、かつ結果を出せというのです。酷い場合は、全員に画一的な決まったやり方を押し付けながら、独創的な結果を求めたりします。それならまだマシで、独創的な結果を出すと、画一的な過程から逸れているからダメだ! などという。なんとも、どうにもままならない世界です。いずれも、遊びを悪、余裕という意味でのアソビも許さないという世の中の風潮によるものでしょうか。それで一体この先、どんなことが人間にできるようになるのでしょうか。
遊びは基本的に自発的な行為です。仮に勧められてはじめたとしても強制ではなく、せいぜい半強制。幼児教育の研究をしている人ならきっとご存知だと思いますが、遊びはとても大切です。別に研究家でなかったとしても、子育ての経験があれば、子どもが大人を真似て遊ぶなかからスキルを身に着ける
無用の用としての遊び
遊びは無用の用を持つ。
前述のようにスキルを身に着けるという実用性のあるものに限らず、無用であることに価値があるのです。それもストレス発散のような一過性、享楽的なものではなく、です。
例えば、あなたが住んでいる家を取り上げましょう。あなたの部屋にはなにがありますか? まさか部屋のなかに隙間があるからとダンボールを天井まで積み上げ、玄関から一歩もなかに入れないということはないはずです。近年流行っておりますミニマリストの例もありますが、なにもないことが快適な暮らしに結びつくということもあるはずです。トイレのドアの前に荷物を積み上げればトイレが使えませんし、動線上に服や本などを散らかしていれば、それらを避けるだけで、視界に入れるだけでストレスがたまる。そういったものはないほうがいい。ないほうが快適に暮らせる。つまり、我々が本質的に部屋に求めるていのは「なにもない空間」だといえるかもしれません。我々は実益のない、単なる空気の置き場所に家賃なり住宅ローンなりを払っているのです。なぜなら、快適だから。これが無駄だ、非効率だというのであれば、起きて半畳寝て一畳のたとえのように、カプセルホテルのような場所で暮らせばいい。まったく無駄のない住環境でしょう。
で、人間それでいいのか、耐えられるのか、という話になります。
意味があるかどうかわからないからいらない、いますぐ利益に結びつかないからいらない、というのはそれこそ浅慮、浅薄、軽挙妄動というべきで、遊びを許さない風潮というものこそ、アタマを使っていない連中の戯言ではないのかと思うわけです。流石にいい過ぎでしょうかね。
ここまで強い言葉を使ったのには理由があります。私は遊ばないということは、過程を評価してほしいという無言の圧だと考えることにしているからです。「こんなにがんばったので、評価してください」という圧力です。過程を評価するのは危険です。結果を軽視するからです。人間誰しも楽をしたいと思っています。どんなにがんばっても結果しか評価されないとなれば、結果のための行動をとりますが、過程しか評価されないとなれば、結果を無視してがんばっている風を装おうとします。結果を装おうことは難しいですが、過程を装おうのは簡単です。仕事をしているフリをする大人、たくさんいるでしょう。アレです。
9時から5時まで会社にいたんです、がんばっているんです、評価してください。
生産性がどうのこうのというのは、この辺にあるのでしょうね。世の中が会社にはこなくても結果を出してくれたら別にいい、にシフトすれば、こんな無駄はなくなります。出社しても結果を出すなら遊べばいいんです。遊びのなかからおもしろいことが見つかることも少なくありません。アルキメデスがお風呂に入っていて「ヘウレーカ!」と叫んだり、iPS細胞の山中教授もアイデアを掴んだのはお風呂のなかでしたし、人間は緩んでいるときにこそ、突拍子もないことを思いつけるのです。昼寝して化学式を思いついた、問題の解決法がわかったなんて話は掃いて捨てるほどあるでしょう。
現代日本には遊び(ゆとりとしてのアソビ)が明らかに足りてないですよ。
このところ、特に遊びと遊び心の足りていない人が増えたように思います。
足りない、足りないといっていてもはじまらないので、
私は自分でつくることにしました。それも地方で。
早速、教育上よくない、死んでしまえなんていわれていますけどね。
人間をガチガチに縛り付けて、機械のように運用したって、機械に勝てるわけじゃないのに。
大いに遊んで、大いに新しいことを思いついて欲しいと願ってのことです。
私のつくる遊びが、役に立つかはわかりません。
役に立たなかったときは、無用の用と許してください。
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