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古典作品の魅力について

昔の人の書いているものをみていると、変化が乏しくて本当につまらない。100年前ならまだ耐えられるが、300年、500年となるともうキツい。自分がそうなのだから、もっと若い子にとって古典作品なんてものは「ゴミ」も同然なんだと思う。

愛だの、恋だのは不変のものだといわれているけれど、こうして世間を見てみると、ぜんぜん、不変じゃない。愛や恋、性なんていうものは、あるにはあるけどどうでもいいと思う人も増えていて、それだからこそ先進国では未婚率が高まって、反比例するように合計特殊出生率が下がるわけで。

文芸の世界に身を置いている人ほど、こうしたものは不変だと説いちゃったりする。もちろん、そうではない人はたくさんいるのだけれど、不変と信じてやまない人は、やっぱり古典を読んでない人なんだな。文芸の人間ですら読んでないものを、一般人に敷衍(ふえん)しようったってそうはいかない。

なんで読んでないと断定するかといえば、かなりの古典である釈尊ことブッダの(弟子の)作品には「諸行無常」とあるから。これはまあ、読んでなくても知っている言葉だろう。知っていて忘れているのか、宗教的に相入れないかは別として、やっぱり、真剣に取り組んでないんだろう、と。

ただ、古典に本当に価値がなく、魅力がないかといえば、実はそうじゃない。古典のなかに出てくる彼らは、仕事が辛いといわない代わりに、赴任先へ行くのが遠くて嫌だとか、恋煩いで死にそうだとかいう。現代人からすれば余裕のありすぎる発言で、看過できないからムカつく、受け入れらんない、読みたくない。ということになりがちだけれども、彼らの時代はそれが人間の限界だった。

彼らの限界は、我々の限界より随分と手前にあったびだ。それを「舐めてる」というのは簡単だけれど、むしろ常軌を逸しているのは我々なのかもしれない。そういう視点を持ってみてみると、古典の魅力に気がつくわけです。

ここが古典の魅力かな?と思えはじめると、彼らは限界が我々よりウンと前にあった代わりに、彼らの中には人間の動物性というか、野性、自然性が濃く残っていることに目が行くようになる。次に気がつくのは、彼らの吐く言葉には吸い込む息と同量か、それ以上に自然性が感じられるということ。変化の乏しい時代の、バカで粗野で、風流を気取ってはいるが科学もテクノロジーもない野蛮人という評価とは別に、現代科学人が失った獣畜のごとき野性と清廉な自然が肚(はら)の底に溜まっているのが見えてくる。

ここに気づいてしまうと、現代人の価値観で「ツマンネ」といっていたことの恥ずかしさが、途端に沸き起こってくるのです。古典というものを見ているつもりで見ておらず、聞いているようで聞いていない。これほどまでに発展した時代に生きておきながら、節穴だった自身の全人格、全人生を否定されたかのような居場所のなさが襲ってくるのです。

どれがどう、と作品の名前を挙げる必要もないと思うけれど、古典が古典としてほんの50年前まで徹底してもてはやされていたのには、きっと理由がある。かの大戦を経て、テクノロジーが爆発、蔓延し、価値観が根底から覆ってしまったから省みられなくなっただけで、以前存在していた現代とは異なる価値観で見てやれば、いかに現代の人間や作品が無茶をし、限界を超えているか、加減を知らないケダモノかが見えてくる。

古典作品のおもしろさは、作品そのものの内容や言葉選びには「ない」のかな、と。少なくとも、言葉遣いが変わった以上、我々一般人がが正しく判断できるものではない。ただ、かつての人々の営みや、精神性を現代人と比較し、判断することはできるとも思う。

それができてしまうと、この狂気の時代よ早よ終われと願ってしまうわけだけれども、古典を「時代の価値観」というメガネをかけて読んでやれば、これからの生き方ってものが見えてくるかもしれない。おそらくだけれど、人間の形を保ったまま、機械と同じテンポで生きようとしているのは、正しいとはいえないんじゃないかなぁ。

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