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誤りと謝りについて

間違ったときに、謝れる社会になっているか



近年、というほど人生を生きているわけではありませんが、この10年程度で、随分と謝ることが難しい社会になったと感じます。また、これと連動して、誤ることも難しい社会になったものだと思うのです。

一体どういうことかといえば、人間は考え違いや勘違い、そうでなくても間違いを犯します。そのときに、人生の失敗を認めて謝罪することを「許さない」社会的圧力が強烈になった、と感じるわけです。特にネット社会となったことで、失敗は瞬時に拡散され、半永久的にアーカイブされ、仮に心を尽くして謝ったところで、溜飲を下げる人間が出る一方、後にその事実に触れて怒り狂う人間が出てきてしまい、事態がいつまで経っても収まらないという状態が起こっていると感じます。こと学術的な部分では、一度の誤りや思想の変遷も許さないようになっていて、まともに意見を発信することもままなりません。

他方で、罪を犯した人間や、倫理的に問題のあることを起こした人間は、改心しようにも絶対に許さないという空気が醸成されてしまっています。

つまり、なにが起こっているかというと、一度たりとも失敗しない、間違わない人間以外は、表立って意見を述べたり、行動したりしてはいけないという価値観が完成してしまった、ということです。これは本当に損失だと感じます。

批判や失敗を恐れて手足を引っ込めてしまうことで、なにも生み出されなくなってしまうという機会の損失は、見えないだけにわかりづらいものですが社会的に大きなブレーキとなっているのです。よくよく考えてみてください。失敗しない、間違わない人というものはもはや「神仏」です。スピリチュアルな話だと敬遠されかねないので、あまり使いたくはありませんが、わかりやすい例としてあげました。神仏に同じです。でも、それ以外にも間違わない人がいます。それは、「行動しない人」です。社会に伍して名を隠し、横並びに生きていれば、白日のもとに晒されるような失敗や間違いはしないでしょう。でも、それって、一概に間違った人よりも正しくてエライのでしょうか?

もちろん、間違いや失敗、犯罪などはないことがベターです。特に最後の犯罪については、ないことがベストに近いベターでしょう。しかし、なにもしないでおいて、他人の間違いを指摘するだけで、一体、なにが生まれるのか、とも思うのです。失敗による損失を未然に防ぐ効果があるだけで、それ以外にはなにも生まない。社会全体に監視の目があって、暗澹たる空気が立ち込めるというのは、いささかよろしくなかろうと思うわけです。

これは自戒を込めての話になりますが、他人の間違いを指摘したり、批判するときには、それが成長や進歩を促すためのものかどうか胸に手を当てて聞いてみるとよい、と思います。単に一時の激情や、自分の価値を確かめたい、酷い場合は高めたいという勘違いからではないか。

誤りにくい社会は、謝りにくい社会です。
そしてそれは、「間違い」なく、生きにくい社会です。

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