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なぜ人は精神的に追い詰められるのか

精神的に追い詰められる(神経症になる)理由

無能の証明をされたくない

 

私は長らく病に苦しんでいて、確かに精神的に参る時期もあり、「線維筋痛症」と診断される前は医者に匙を投げられて「心療内科に行きなさい」といわれたこともありました。そのときからずっと思っていることとして、「自分は病気だから仕方ない」と思うことで「自分を守ってしまってはいないか」という焦りがあります。

 

これは私にとって大きな恐怖で、なんらかの理由をつけて自分が本気で取り組まないように仕向けているのでは? という疑念が少しでも湧くと、いてもたってもいられなくなります。こうして私は「肉体的病気や痛みで動けない」ことと「甘えたくない」という恐怖双方から攻撃を受け、ますます参ってしまっていました。

 

ところが、世間一般にはまったくの逆で、「なにかができない理由を用意することで自分を守る」のが通例なのだそうです。つまり、「自分がダメなのはナントカのせいだ」といったり、「自分はまだ本気を出していない」というものです。前者は「学歴がないから成功できない」ですとか、「虐待を受けて育ったので成功できない」、「病気だからしあわせになれない」などです。後者については、自己実現的な予言ということになります。具体的には「やればできるのだから、勉強しなさい」と親にいわれて育った子どもは「やってもできないこと」を避ける理由を得ます。結果、やりたくないことが目の前に現れたり、実現困難な目標と対峙すると「手をつけないことで自分を守る」ようになります。「やればできるけど、やらない」というわけです。

 

精神的苦痛は、実は精神的快楽かもしれない

 

精神的に参っている状態は、「自分が無能だとバレたくない」という大きな恐怖を前にして、それを覆い隠すため、見て見ぬ振りをする「理由」として、生み出されている場合があって、その結果として本当に苦しんでいる演技をしてしまい、それが進んで演技ではなく、事実になってしまうのではないかと考えています。

 

例えばコミュ障という言葉がありますが、人と仲良くするのがニガテな人が自称したりしますけれども、本当のコミュ障は自分をコミュ障だとはいえません。周囲の人間の反応を理解できない、場違いな行動を平気でする、人のきもちがわからない。そうしてコミュニティから追放されるのが真のコミュ障です。一方、「自分はコミュ障だ。コミュ障で悩んでいる」という人は、「他人に比べて自分はコミュニケーションがニガテである」ということが理解できています。実際にニガテなのかどうかは別として、そう思えるだけの能力は持っているのです。しかし、積極的にコミュニケーションをとって、上手くなろう、仲良くなろうとはしません。なぜでしょうか。

 

それは、予防線として「コミュ障」という言葉を使っているからです。「いまの不遇を囲っているのは、障害があるからなんです」といっておけば、自分の無能や無努力が世間に知られずに済み、なおかつ自分自身も騙せるからです。様々な神経症は、これと同じメカニズムで発生しているのではないか、というのが私個人の考えです。

 

ではなぜ、精神的に苦しんでいるという選択肢をとるのか。これはいうまでもなく、そちらが楽だからです。問題と向き合う精神的苦痛ではなく、より簡単で自分を守ることができる、精神的快楽が得られるからです。本人が気づいているかどうかと関係なく、人間は楽なほうを選ぶ動物です。これはもう仕方ありません。しかし、自分が精神的に苦しんでいる状態から抜け出したいと思っているのであれば、楽な選択肢として選び取った逃げ道は、早々に破棄しなければなりません。そこは袋小路で、対症的に治療しても絶対に治らないのです。その症状は、虚偽から発生しているものだからです。実際の病巣はもっと奥、さらに強大なものから出てきているのだと現実を直視して受け止めるほかありません。

 

大変に手厳しいようですが、きっとそうだろうと思っております。私自身、なにか理由をつけて自分を守りたいという思いがないわけではありません。しかしながら、そんなことをしたところで、自分が無能という事実は変わりません。無能を隠せば隠すほど、バレたときの反動、恐怖が大きくなって、ますます理由をつけて自分を守るようになります。そうなれば最後。なにもできなくなります。なぜなら、なにもしなければ失敗しませんから、無能とバレることもなくなるからです。

 

私はこの状態を一番嫌います。10代、20代の健康なころはそうでもなかったのですが、30代、いよいよまともな社会生活が困難となった時期を通り過ぎてからというもの、肉体的にも頭脳的にも無能なのに、一体何を守っているのだろうと頭が切り替わったわけです。体が動かない、目が見えないというのは、物理的な無能です。社会にご迷惑ばかりかけています。一方、頭が悪いのも同様です。これをどう隠し立てするか。当然、できっこありません。年に数ヶ月も寝たきりになるのですから隠しようがなく、だったら、そんなことを考えたって仕方ないじゃないかと思えるようになったのです。

 

無能である人間が、有能に見せようとすることは、世間を欺く行為です。詐欺そのものです。

また、誰かに有能に見られたいという考え方は、自分の人生を生きられない原因であるとも思います。自己の評価を他者に委ねてしまうからです。確かに、私の人生の評価は他者がするのでしょうが、私の人生の主人公は私です。誰かに優秀だと思われたり、褒められたり、感謝されるために生きるのは、主人公とはいえません。誰かの人生の脇役となることです。

 

この考えは自己中心的に生きるのではなく、利他的に生きることと反目しません。自分がよいと思うことで、他者を幸福にすることは理想論ですが可能です。

 

話が脱線しかけましたが、少なくとも、他者を欺いたり、自分の価値基準を周囲に求めることでは、精神的な成長も自己の充足も得られないと思うのです。

 

精神的に参っているという状況は、自分自身が精神的に参らせているだけかもしれません。一度、徹底的に見つめ直してみることを強くお勧めします。

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