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コミュニケーション能力が低くても大丈夫

コミュ障でも、ぜんぜん平気

コミュニケーションの水準を高く設定しすぎ

 

コミュニケーションが下手な人、私のまわりにはたくさんいます。いくつかのメディア様にもお話しましたが、私は東京にいる間、そのほとんどを「秋葉原」に住んでいました。秋葉原はああ見えて商業地ですから、商店主はみんな結構「コミュケーション上手」です。でも、買い物客はそうじゃない。人と話すのが面倒だったり、怖かったり、という人が結構います。

 

自分なんてその最たるもので、できることなら食券どころか前金定額制のセルフ定食屋みたいな場所で、誰とも会話せず、レジで人と接近することもなしに過ごしたいと思っていましたし、いまでもそちらの方がラクだと思っています。でも、特に困ることなく生きてきました。

 

コミュニケーションが下手ということは事実としてあっても、さして困ることなんてないはずです。困る気がするのは、「誰かより劣っている」と思うからです。わざわざ他人と比べて、勝手に困っているんです。自分はダメだとか、恥ずかしいとか。

 

まったく、無駄なことです。私はちゃんと言葉が解せて、交流できれば、コミュニケーションが下手でも、遅くても、話す内容がつまらなくても「なんにも」思いません。「すごい!」「えらい!」とは思いませんが、「こいつはダメだ!」とも思わないんです。気にし過ぎです。また、コミュニケーション能力の高さで人を過剰に評価するような人とは付き合わなければいい。彼らとは文化が違う、くらいに思っておけばいいのです。当面は。

 

そもそも、テレビ番組の司会者や、頭の切れる落語家、誰とでも仲良くできるスーパーマンみたいな人をコミュニケーションの基準にするからおかしいことになるのです。ああならなければならない、だなんて幻想です。自分がしゃべりで食べていくというのであれば別ですが、それ以外の人は最低限の会話が成立すればどうにかなります。

 

そんなことより大切なのは、口下手でも、無口でも、行動でコミュニケーションできる人。つまり、間違いのない行動ができる人です。口八丁手八丁は世渡り上、すばらしい力ではありますが、真に信頼できるのは、口によるコミュニケーションの巧拙ではなく、行動におけるコミュニケーションの巧拙です。いったこと、約束したことを、しっかり守る。それで十分なんです。そしてこれがなかなか難しい。口がダメなら、そのぶん、行動で示せばいいのです。時間はかかるかもしれませんが、確かな仕事ぶりは裏切りませんから。

 

コミュニケーション能力は鍛えられる

 

親兄弟、親族が聞けばびっくりするでしょうが、私は他者(お客さん)相手には滅法強い。しゃべり過ぎで嫌われるくらいのおしゃべりです。これは後天的に鍛えた力です。鍛え方は色々あるでしょうが、しゃべりの上手い人を丸ごとコピーする。あの人はこんなとき、こうしゃべるだろうなといつでも思えるくらいに染み込ませる。自分で創意工夫しないことですね。工夫するとつまづきますから。最初は完全コピーです。

 

次は、「私は『まだ』コミュニケーション上手になってない」と思うことです。これは「まだの魔力」と呼んでいます。コミュニケーションに限らず、どんなものでも「まだ〜になってない」といえば、「〜できない」というよりずっと心がラクになり、ポジティブな気がしてきます。人間なんてバカですから、自分の吐いた言葉で、簡単に騙されるのです。バカなのは私だけかもしれませんが。

 

コミュニケーション能力は鍛えられるというと、筋トレのように苦労しなければならない気がしますが、そんなことはないんですよ。上記の2点に加えて、勝手に他人と比べて落ち込んだりしなければ、割合、どうにかなるものです。

 

自分自身いわゆる「コミュ障」で、周囲もコミュニケーションが下手な人間だらけの世界で生きてきた私がいうのですから、おそらく正しいはずです。嘘だと思ったら私に話しかけてみてください。コミュニケーションが下手だと悩む人とも、フツーに会話できますから。

 

コミュニケーションモンスターと会話するより、努力でちょっとできるようになった人と会話するほうが無理もないですし、きもちが理解できるぶん、ラクでしょうしね。ヘンに悩まず、自分は「まだ」成長の途上と思って話しかけることです。

 

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