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希望のつくり方|玄田有史(岩波書店)

低希望社会実現に向けて

大人たちの教育は大成功

 

日本は大昔から慎ましく、欲を見せない、欲を持たない国だということになっています。確かに、そういう色彩は強いでしょう。しかし、それが本格的に根付いたのは「戦前期」からではないかと私は考えています。「欲しがりません、勝つまでは」の意識とでもいいましょうか。そう考えますと、我々日本人はいまだに戦後であって、戦争は終わっていないのだなあと思ったりもします。

 

戦中のような美徳、意識を持ち、若者の手足を縛り付けて、さあ、希望を持てといったって、どう持てばいいのか。これは玄田氏への批判ではなく、若者が低欲望、低希望社会で生きることを願っておきながら、一方で野心を持て、子を産んでこの国を拡大再生産しろという、矛盾に満ちた我々大人に対する怒りに似た感情です。

 

自分たちはバブルで浮かれたのに、若い世代が新しいことをしようとすると「行儀が悪い」と怒り、なにもしないでいると「覇気がない」と怒る。こうして若者たちはますます手足を縛られて、「だったら、欲も希望も持ちません」と従順になっていくわけです。一体それで、誰が得をするのでしょうか。確かに、支配欲は満たされるでしょう。合法的に奴隷をこしらえることはできますね。でも、先にいなくなる我々が後に残る世代の手足を縛るなんてバカらしいですし、そんなことをやっておきながら、最近の若者を見るにつけ、どうだのこうだの、日本の未来を憂いているなどと口にするにいたっては、滑稽千万と申しましょうか、情けなさすら感じるのです。誰のことかといえば、私を含めた大人のことなんですけどね。情けなくて申し訳が立たない。

 

若者は無知です。何十年も先に生まれた大人からすれば、赤子同然かもしれません。でも、無能ではありません。我々が生まれたときには、エクセルもスマホもありません。若者は大人になるころには、こういったものを平然と使いこなします。無能なわけじゃないんです。

 

そしてなにより、未来は彼らがつくります。我々がどんなに縛り付け、矯正しても、人生単位で結果を保証してやることはできません。ですから、いいつけ通りに生きた結果、間違いなくしあわせな未来、人生が手にできると保証できる人間以外は、他人の人生に踏み入ってはならないと思うわけです。そして、そんな人間がどれくらいいるのかとも思います。

 

いま再び本書を手にしたワケ

 

『希望のつくり方』は、2010年秋ごろに岩波書店から出版された新書です。これに先駆けて、玄田氏はニートに関する著作を記されています『ニート(幻冬舎・2004年)』。そのときは私は大学生で、覇気のない若者を散々にこき下ろし、問題視する番組に辟易していたことを思い出します。社会人になると、こういう大人たちの中に入って生きていくことになるのかと、センシティブなまでにショックを受けて、暗澹たる思いでいっぱいでした。

 

あれから15年。そんな私も、いまでは「いい大人」です。高校生や大学生から見れば、とても同じ世界の人間とは思えない、オッサンになりました。きっと、隔絶した世界の住人に見えているはずです。昭和生まれの私が、令和をどう生きようか、あのときよりずっと希望が薄くなり、従順になった若者にどう接していけばいいだろうかという思いもあって、若かりしころのきもちを思い出すべく、再度本書を手にしたというわけなんです。

 

本書のなかには、仏教から見た「希望」と、キリスト教から見た「希望」が扱われていますが、仏教というのはそもそも、「無」の精神です。ですから、希望などというものはないほうがよろしい。ということになります。快楽もないかわりに悲哀もない。それが仏教的世界観。一方キリスト教は希望に積極的です。どちらが優れているかという話ではありません。仏教は、心を騒がすものから離れれば、現世の苦しみからも離れられると説き、キリスト教は積極的にしあわせになれば、現世の苦しみから離れられると説いたにすぎません。その解決法が異なるだけで、解決したい問題は同じなのです。

 

しかし、仏教的な「希望」の理解を表面的に受け取ってしまうと、無感動、無感情、無気力、無行動が「よいこと」という価値観だと解されてしまいます。そしていま、日本に蔓延しているのが、この価値観です。新奇なことをするな、貧乏でも我慢しろ、寄らば大樹の陰……。自分で行動することを禁止して、手足を縛り、現状に満足して文句もいわない。それをすべての人間に強制したり、この世界で一番苦しんでいる人を基準にして、全員がその水準まで落ちて我慢しあおうという我慢大会を強要する。これが本当に、日本の在るべき形なのでしょうか。私にはそうは思えないのです。

 

なぜなら、現状すべてを受け入れて生きることが正しいのならば、世尊(ブッダ)は王子のまま生きているべきですし、弟子のアナンダなどを引き連れず、たったひとりで満足していればいいのであって、仏教などという形、サンガなどという修行組織を持って苦労する必要もないはずです。しかし、世尊は苦労を選んだんですね。ということは、行動すること、変えることを否定してはいないんです。また、考えを広め、苦しみから解放されることを願っていたということです。これは、とりもなおさず、「希望」を与えようとしていたということです。

 

ただただズブズブと、苦労の底なし沼に飲まれて、耐え忍んで死んでいけとはいっていない。私はそう理解します。

 

そうであるならば、若者に苦労を強要したり、過度な我慢を求めたり、それが精神修養だなどということは、正しくない部分が多分に含まれるということです。大人たちがせっせと矯正し、教育した、従来の価値観は誤りだということです。

 

家に帰って、なにもせず、会社にまた行くだけ。そんなものは人生なんでしょうか。有機物でできているだけの、ロボットとなにが違うのでしょう。

 

若者は賢いですよ。

私どものしくじりを学んだ次の時代を生きているのですから。

がんばっても仕方ないと大人が見せて、教えれば、そのとおりに生きます。

 

いま、本当に希望が足りていないのは、我々大人のほうなのかもしれません。

 

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