1. HOME
  2. ブログ
  3. 怒りは捏造された感情である|アンガーマネジメント論

怒りは捏造された感情である|アンガーマネジメント論

人間は怒りたいから怒る理由を探している

怒りっぽい人は自己顕示欲が強い

 

世の中には怒りっぽい人がいます。あの人たちは先天的に沸点が低いのでしょうか。もちろん、そういった場合もあるかもしれません。しかし、多くの場合、怒りという感情はコントロール可能で、怒りっぽくて困っている、困った人がいるということは、改善できる問題なのです。

 

アドラー心理学などの個人心理学にみられますが、怒りという感情は二次感情であって、それ単独では存在できません。必ず「一次感情」を伴って発現します。

例えば、

部下が仕事をやっていない → なぜやっていないんだ! と怒鳴る

 

このような事例があるとして、当然のこととして怒鳴ったことで仕事が魔法のように完成するわけはありませんよね? 改めて指摘されれば誰でもそうだとわかるはずですが、怒ることというのは、基本的には自分を大きく見せるために行われるものなのです。自己顕示欲の塊だと私は考えます。

 

怒りは問題解決に一切関わらないのに、なぜか怒る。これは社会的にそう教育されてきた(体罰など)のもあるかもしれませんが、実は人間の内面に「怒る理由」を探してまで怒る要素が隠されているのです。

 

すでに触れましたが、自己顕示欲。これが怒る最大の理由です。目の前で気に入らないことをした、されたとき、誰もが怒るわけではありません。私も怒りの感情が湧くことはありますが、大抵、嫌なこと、気に入らないことが目の前で展開されると、失望します。

 

具体的には、応援している野球選手が空振り三振をした、サッカー選手がシュートを決め損ねた、横綱が情けなく負けた……とき、ある観客は怒り、ヤジを飛ばしますが、私はガッカリするだけです。仕事でも交友関係でも約束を破られると怒ることはほぼなく、深く失望するだけ。恨みのような感情を持つこともありますが、カッとすることはあまりないのです。

 

このように同じ体験をしても、片方は怒りという形をとり、片方は失望という形をとるのはなぜかと考えた場合、世の中に影響力を行使したい自己顕示欲の有無と考えなければ説明がつかないことが多いのです。

 

 

怒りの裏側を見て対処しよう

 

怒りという感情が発現する裏側には、まず「自分は正しい」というものがあります。それらを分解すると、

  • 相手の人生を我が物にしたい(主導権の奪取)
  • 自分の時間や権利を侵害した保障と利払いを求める
  • 正義の発露(異常なヒロイズム)

 

このようになるでしょうか。ここまでは、よく怒っている人を観察していればわかります。でも、そこで理解を終わらせてはなにも問題は解決しません。彼らはどうして怒るのかを考える必要があります。もちろん、威圧的行為を伴えば、楽をして上記のような欲望を達成できるからこそ怒るのですが、「楽をして欲望を達成したい」のであれば、「拗ねる」「不機嫌な態度をとる」「弱者を演じる」という方法もあるわけです。でも、そういった「かまってもらう」「配慮してもらう」形での欲望の達成は選ばなかったのはなぜか。その背景をもっと掘り下げる必要があるのです。

 

そうした視点で眺めてみると、彼らが怒るのは、総じて「無力感」という一次感情によるものだと考えられます。たとえば、不安や悲しみ、焦り、孤独感など、自分は力がない人間だという事実が背景にあって、怒ることで誰かの上に立ちたいと願っているのです。仮に怒る相手が存在しない場合は、無力な自分を大切にしてくれない社会に対して怒りはじめます。どんなことがあっても人のせいにする。小さな子どもが誰かのせいだとウソをつくように、生まれながらに人間とは本質的にそういうもののようです。

 

ただ、怒り散らして誰かを支配したところで通常は社会的に支配者階級に立つことは稀ですので、すぐにその願いは挫かれます。怒りで誰かを支配したところで、結局のところ自分が「無力」「無能」という事実は変わりませんから、怒りっぽい人は、いつまでも同じことを繰り返すのです。

 

冒頭でお伝えしましたとおり、怒鳴ったところで魔法のように仕事は完成されません。上司は部下の無能を責めているように見えますが、実のところ、まともな部下に育てられなかったことや、管理不足の自分の無力について「一瞬足りとも自覚したくない」がために、瞬時に怒るのです。怒りのスイッチを最速で作動させて、自分が無能である事実から目を背ける習慣づけがなされている結果、怒りっぽくなっているといえます。これを変えなければ、怒りのコントロールはできません。

 

怒りをコントロールし、怒りっぽい性格をどう治せばいいのかですが、これもまた冒頭の仕事の話になります。仕事ができていないという事実に着目するのではなく、どうなっていればよかったのかに着目するのです。つまり、本来あるべき理想の形に、いまからどうすればいいかを考える。過去の評価は行わず、未来への対処だけを考えることです。

 

大好きな選手が空振り三振したらどうするか。自分がバットを振っていたら打ち方も変えられるでしょうが、そうはいきません。もっと応援すればいいのか、自分がデータアナリストとして球団職員になればいいのか、可能・不可能を問わず、徹底的に「理想に近づく」ための方策を練ることです。これは、上司と部下の関係も同じです。上司はベンチで応援するだけ。打席に入るのは部下です。上司と部下はコーチと選手の関係ですから、スタンドで応援するファンよりずっと近いわけですから、どうすれば理想を達成できるか、共同作業をすることです。このときの理想は、上司の自己顕示欲を満たすのでも、部下の仕事をとりあえず終わらせることでもなく、最終的に会社の利益になることです。野球チームであれば、シーズンを通して優勝することです。個人成績やコーチが強権を発動する体制づくりではありません。

 

怒りという感情は二次感情で、それがあまりにもすばやく人間の心を支配してしまうので、本当に注意深く観察しなければ、ついついおかしな方向へ走ってしまいがちです。怒りっぽい性格も、怒りっぽい人が身近にいて困っている人も、どうしてその人が怒るのか、一次感情の「無力感」を理解できれば、解決に前進できるものと思います。

 

無理に相手を変えようとしても難しいでしょうから、その無力感を解きほぐす手伝いをするか、お前は無力なのだと突き放す(相手にしない)しかないのですが、後者の場合、怒る相手がいなくなると社会に対して怒るという原則から、学校などのソフトターゲットを狙ったりしかねませんのでこれまた難しいところです。やはり、人はみな無力だから、支配する、されるという形ではなく、共同体として生きる価値観を浸透させるのが「理想」でしょうか。

 

近年、怒りについては随分と明らかになってきました。しかし、このように実際の行動に落とし込めない部分もあります。理論がわかっても、どうすればいいのかわからないのではないのと同じですからね。怒らなくてもいい、怒り以外の成功体験を与えるにはどうすればいいかは、今後社会が解決すべき問題なのでしょうね。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


関連記事

調べものですか?

最新記事

おすすめ記事

特集記事

About Author