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幸田露伴『努力論・序文』

序文解説(初版序文・壬子夏-大正元年夏)

ただ単に努力していればいいのか?

 

努力というものはひとつの概念であるけれど、詳しくみていくと、ふたつの努力があることに気がつきます。ひとつは直接的な努力で、もうひとつは間接的な努力です。直接的な努力は、ある事柄に対して真正面から行う努力で、間接的な努力は、直接的な努力をするための準備のことをいいます。たとえば、努力するための環境を整えるだとか、人間性に厚みを持たせるといったものです。

 

「努力したって無駄になるかもしれないじゃん」という人もいます。確かにそのとおり。でも、よりよく生きようと思えば、人間には努力が欠かせないものなのです。ただ欠かせないとは思うけれど、その努力は「やりたくて仕方ない努力」であってほしいと思います。つまり、やりたくもない努力、努力するために努力するような状態では上手いこといくわけがないんですから。誰にいわれるでもなく、自発的にやる努力。やらないと気が済まない努力というのが、いい努力です。

 

ところで、先に述べたように、努力しても無駄になる場合があります。それは運が悪かったか、努力のやりかたが悪いかのどちらかです。努力の方向性を間違えていたり、間接的な努力が足りていないのです。成長したり、成功したいと思えば、ただダラダラと直接的な努力をやっていればいいというものではありません。長時間好きでもないことを続けて、苦しい思いをするのが努力だと勘違いしていませんか? 向いてないことをやり続けるのは努力の方向性を間違えているのかもしれません。

 

もしくは仮にあなたが自発的に努力をして、苦しまないままに継続していたとしても成果が出ないなら、それは間接的な努力が足りていない証拠です。いい詩歌を読むための努力をしていると仮定すると、いろんな本や文化、言葉に触れないまま、カラッポの状態でどんなにいい作品を書こうとしたって書けませんよね。これが直接的な努力をしても無駄な状態ということです。間接的な努力をして、しっかりとした知識や技術の足固めがあってこそ、直接的な努力ができるのです。

 

そんなバカなと思うかもしれませんが、そうじゃなければ「下手の横好き」なんてことわざは残りませんよね。ということは、やっぱりただダラダラとやってればいいという話じゃないんです。このことを肝に銘じておかないと、人生は才能次第だとか、がんばっても無駄だとかいって、努力自体を否定する人の言葉が正しく思えてしまいます。

 

努力をするということは、不純だと知っておく

 

努力するということは、なんらかの欲望があって、それに近づこうとすることだから、本来不純なんですよね。好きなことでも「今日は練習したくないな」と思う日もあるでしょう。でも、努力する。それは成功したいといった不純な動機があるおかげです。本当の努力は、自分を奮い立たせて努力するのではありません。そういったものすら離れて、人生そのものが努力になるのが最高の努力で、醍醐味なんです。

 

この本は明治43年から44年にかけて『成功雑誌』に発表した原稿を中心にしたものです。努力の話題が多かったので『努力論』と名付けています。

繰り返しになりますが、努力はいいことです。しかし、努力するために努力していてはいけません。努力であることを忘れるような状態が本当の努力です。

 

努力論・再刊序文解説(大正15年11月12日)

 

大正12年の大震災で努力論の原本が焼けてしまったので、復刊の希望になかなか応じられませんでしたが、忠誠堂さんのおかげで復刊できることになりました。とても感謝しています。とても人気でこれまでに5度も改版することになり、色々な出版社からお声がけもいただきましたが、最初の出版元の東亞堂から権利を引き継いでいる忠誠堂さんにお願いすることにしました。

 

この本は人生の本当の意義を説くような立派な本ではないけれど、若者や壮年の方々の人生をよりよく生きるノウハウを書いたつもりです。それが多くの人に受け入れられたことは、著者として大変うれしく、またみなさんの人生にプラスになれば幸いに思います。

 

     

 

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