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アラン・トゥーレーヌ『行動の社会学』

社会学は産業革命から生まれた

 

ということは、産業革命が現代の社会学のコアになくてはならないはずなんです。でも、社会学というと、サブカル研究のようなものばかりがもてはやされて、軽佻浮薄! なんていったら頭が堅いように思われますけど、とっくの昔に核の部分を失ったように感じます。トゥレーヌ自身、いまから50年近く前にすでに社会学がなにをやっているかわからない状態になりつつあることや、ほかの学問分野のつまみ食いしかできなかった時代からせっかく脱却しはじめたのに、再び意味不明な方向へ走り出していることに釘を刺しています。「うんうん、それも社会学だね」「ああ、それも社会学の分野だよ」なんていうだけで、なにも生み出さない、ソトヅラだけのガクモンになることをよしとしなかったトゥレーヌは、冒頭から懸命に社会学は産業革命から生まれた。だから、労働を主たるテーマに据えてやっていくべきだと主張します。労働を通して社会を見て、同時に労働というものがどういうものか定義する。それがトゥレーヌの狙いのように思います。

 

先にも述べたように、社会学にはサブカル研究のような刹那的な研究が多くなりがちで、研究対象だけでなく学問も歴史的背景が薄いため、数年もすれば興味関心が移って深みが生まれにくいのです。誰でも入ってこられるけれど、誰も根付かない感じです。トゥレーヌは労働を介して社会を見るという基軸を持っていますから、産業革命以後に生まれた社会学にあって、革命以後に変容した労働と革命以前にも当然存在した労働とを比較検討することで、社会学に歴史的、時間的要素を組み込んで、どっしりとした「おもし」にしたかったのだと思われます(ご存命なので誰か聞いてみてください)。

 

トゥレーヌが社会主義的社会学とされてしまう理由

 

トゥレーヌは著作を見るかぎり、確かに左派寄りの人物だと思います。だからといって、体制の破壊者という結論は性急かな? とも思えます。トゥレーヌは労働を通して社会を見ます。社会学が産業革命で生まれた学問である以上、産業革命によって大量に生み出された都市労働者、工場労働者という「雇われて」「ほぼ非自主的に」労働する人たちの分析をするのは当然の成り行きです。当時はエンクロージャー「囲い込み政策」によって、農業従事者の生活が激変した時代で、自分の土地を耕して、売るという「農家と商家」というそれまでの労働が破壊され、農家は農地を耕して賃金をもらう小作人になりました。また、高度に収れんされた農業は人を必要としなくなっていき、都市部への工場労働者の供給を促進しました。

 

こう書くと単なる歴史の記述ですが、実際には18世紀にだって人は稼いで食べていたわけでして、供給を促進だなんて言葉じゃなくて、食うに困った貧困状態の人を都市部へ追い出したんですよね。あまりこのへんを触ると、政治思想的になるのでやめておきますけれども、労働と労働者の変化に触れると「政治思想的」「左派的」と思われるかもしれない……と危惧すること自体、とりもなおさず、社会学がどうあがいても「左派的」に見えてしまう理由なんだと思います。トゥレーヌは左派の人ではありますけれど、社会学の原理原則に立ち返っていけば、支配者階級ではなくって、この実社会を形作っている、私のようなちっぽけなひとりひとりに焦点をあてることになるので、どうしたって左に見えるんでしょうね。

 

創造なき労働なし

 

トゥレーヌの労働観(という言葉があるかはわかりませんが)は、「労働には創造がついてくる」というものです。workという単語は労働をさしますが、worksという単語になると成果物をあらわします。つまり、この2つは同じ直線上にないといけないということです。ややこしいので言い換えますと、「自分がなにやってるかわかんない」「意味がない労働」は、労働ではないということです。そういう労働というのはどんなものか。大抵、苦役です。懲役もそうかもしれません。いやいややらされて、しかも成果物は自分のものにならない。奴隷労働は、労働じゃないんですね。

 

さらに付け加えますと、労働には人間が必要です。例えば植物が実をつける。これは成果物がありますが、労働ではありません。植物視点では懸命な労働だと思えますが、社会学の分野じゃないということなんでしょうね。あと、高度に機械化された結果、出てくる成果物も労働じゃないようです。ロボットという表現になっていますが、ロボットを操作することでオートメーション化されてこしらえられたものは、成果物であってもその間の労働をすっ飛ばすので、労働じゃない、と。いまの機械整備やAI開発などは労働として目していいように思えますが、確かに人間がノータッチな部分が多いのであれば、それ自体を「社会」や「労働」として認識するのは無理があるかもしれませんね。今後AIが発達して、彼らが独立的に文化を生みはじめたりしたらどうなるかはわかりませんけれども。

 

全体を見通して

 

この本はかなりカロリーが必要な本で、読むのは大変ではありました。やれ左派的な思想書だ、やれ読むだけ時間の無駄だといわれていたもので、正直何度も投げ出しそうになりましたし、学生の自分から実際に投げてしまった過去もあります。しかしながら、いま改めて手にして通読できたことは、今後の人生にとってとてもよかったと感じています。

 

労働を通して行動を見る。行動を通して、人を見て、社会を見る姿は、どこかドラッカーのようでもあり、社会学というよりも、社会生態学ともいうべきで、やはり歴史的大作なのです。

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