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仕事は選ぶべき・選り好みするな論争

仕事は大いに選ぶべきだと思う

 

日本はおもしろい国で、大学まで出て「なんでもしますから雇ってください」といいます。大学を出たのなら、自分はこの仕事がしたいです。こういうことが専門(得意)です、どうか雇ってください。というのが筋です。これは大学に限りません。高卒でも中卒でも、不登校で社会に出たって同じです。自分の能力と価値を最大化することに務めるのが責任だと思います。でもそれは、働かないより働く方が価値を生み出せるから、とりあえずなんでもいいから働けというのとは違います。ここの取り違えが大きい国だと思うのです。自分の持っている価値を最大化しないことが一番の手抜きです。なんでもいいや、この程度でいいやと手抜きで入社した時点で、教育コストや人的資産の有効活用という視点で完全に赤字からのスタートです。生涯を通じて巻き返せればいいですが、スタートの時点でやる気がないものが、やる気があるものに変わることなんて稀です。もちろん、人間を物品や経済生物として扱うことには抵抗があるのであまり損得には踏み込みませんが、「なんでもします」という価値観は美徳であって、本当にいいこととはいえないと私は考えています。

 

よく、就職活動で苦しんでいる学生や、心が折れてしまった学生に対して、「仕事を選ばなければあるだろう」と叱責するオトナがいますが、それがなにを意味するのかどうもわかっていないように思います。私はあるとき、といいますか、大学で経済地理学の授業中、エビの養殖の話を上の空で聞いていたときに「仕事を選ばないことの弊害」について思いついたような記憶があります。その後に経済学の著作を開いてみると、それらしい法則がありました。「セイの法則」です。

 

 

セイの法則という誤り

 

セイの法則とは、供給が需要を喚起するという考えといえばいいでしょうか。つまり、たくさん作れば、たくさん売れるということです。もし作りすぎて余ったら、商品の価格が自然と下がり、反対に購入者の持っているお金の価値が相対的に高まるので余ることはない、全部売れる。たくさん作れば経済は成長する……という法則です。もちろん、相当特殊な状況でなければありえません。どんなに安くなっても、いらないものはいりません。食べきれないほどはいらないのです。

 

同じことが労働市場でもいえるとされました。本当なら仕事が欲しい人がどんなにいても、仕事がなければ就職できません。給料が0円でも構いません!といったとしても、仕事がなければそんな人すら使えないかもしれません。ここまでくるとこれはこれで無茶な話なんですが。労働市場に余剰の人材が流れ込めば、国内の給料全体が下がりに下がって、自然と調整され、全員が雇用されるというのです。もうおわかりですね。現実問題として、ありえません。

 

ですので「仕事を選ばなければある」というのは暴論です。最低賃金以下や、仕事をしても食べていけないようなものは、選ぶに値しない仕事であって、「0円で構いません!」といっているのと同じです。人材の供給過多なのですから、セイの法則の誤りのように、供給がどんなに多くても需要が喚起、つまり人が余っているからといって仕事が突然生まれるようなことはないのです。

 

日本はどうやら人手不足なんだそうです。海外から人を入れようとするくらいですから相当なのでしょう。しかし、こんなに人が足りないといわれているのに、就職率は100%になりません。それどころか就業している人間に副業を持て、週に3日休めといっています。なにかがおかしいわけですね。需要と供給はどこかで釣り合うというのが経済の基礎理論ですが、現実はそうはいかないのです。本当に人手不足なら、どんどん給料が上昇するはずですが、そうはなりません。意地でも上げないのが日本です。それはまあ、雇ったらクビにできないからなんですが、そのせいで価格(給料)決定が阻害されます。同時に簡単にクビにならないからこそ、「なんでもいいから就職しろ」という考えがあるのでしょうね。勤めてしまえば働こうがなにをしようが給料がもらえると多くの人が信じているわけです。そりゃあ、昔ほどではないにせよ、それでもまだまだ信じているんです。

 

先日、フランスの黄色いベスト運動のニュースを見ていたら、「デモで週末の売り上げが悪くなったから従業員はみんなクビにしました」なんていう大通りの店主が出てきて、びっくりしました。これはこれで問題がありそうですが、日本のように雇用を守りすぎると、それ自体がリスクとなって雇用できなくなるわけですね。こうしてあちこちいびつなままに突っ走ってきたのが戦後日本の実態なのです。

 

 

仕事を選ばない人間が増加することによる弊害

 

冒頭に述べたように、日本人は特に仕事を選びません。選ばないので、選ばない全員が低賃金、長時間労働で苦しい思いをします。しかも、イヤイヤ仕事をするために労働生産性も低く(諸外国と比べたら高いと思いますけど)、苦痛のなかで働くのでアイデアも生まれず、ただただ9時5時で机にしがみつくことが仕事ということになっているので、革新的な製品も破壊的な行動も取れないでいるわけです。そんな空気が蔓延している企業や社会ですから、天職を選び取った人間ですら苦しくなります。なぜって、仕事を楽しいと思っているのは異常者ですし、彼らが大きな成果をあげたとしても、その富や財貨はイヤイヤ社員に分配されてしまいます。天職だからといって給料がとびきりよくなるわけでもなし、とにかく会社に居づらいんですね。そうしてひとり飛び出したりするんですが、そもそも企業というのはひとりで働くことが非効率だったり限界があるから生まれた社会的組織なので、独立したところで上手くいかないのです。本当ならその仕事が好きで好きでたまらない人間だけで集まるべきなのに、それができないよくわからない社会。そして、仕事は物理学的な「社会への働きかけ」ではなく、懲役や苦役のような考え方がはびこっているために、仕事は辛いのが当たり前、楽しそうにするのはけしからんとまでいいたげなオトナがゴロゴロいる理解困難社会でもあります。結果、高い技能やクオリティで仕事をする才能があったり仕事が好きな人の成果物に対して、不当に値切ったり、給料が高すぎるといいだしたりする社会になっているのです。私はこれも大きな問題だと思います。イヤイヤ仕事をして得た薄給はとても大切なものに感じます。なので、1円たりとも払ってやりたくない。払うということは、とりもなおさず相手が受け取ることなので、相手をしあわせにしてなるものか、という考えが忍び込んできます。そうして、才能の有無、仕事の好き嫌いを問わず全員が貧乏で不幸になるように社会全体が仕向けはじめてしまうんです。

 

仕事が辛いのは、適材適所じゃないからです。元々仕事というものは、いまほど辛いものではなかったはずです。そして、わざわざ辛くなるような仕事を選んでおいて、お前も同じように辛い目に遭えという呪いをかける風習からそろそろ離脱しませんか。みんなが自分を安売りし続ける限り、誰一人として得はしません。そう仕向けるような社会の一翼を担っていることに気づき、危機感を持ってもらいたいと思います。

 

 

仕事を選ぶことに対する経済学的な反論

 

世界の経済成長が達成されてきたのは、ひとつは産業革命に端を発する技術革新による生産性の向上です。また、市場の拡大も挙げないといけません。市場が大きくなるのは、グローバリゼーションだけではありません。この100年の地球人口の増加、つまりは人口ボーナスで経済が発展してきたわけです。食料も衣料品も、住宅設備に衣服、嗜好品にいたるまで、人が増えればそれだけ必要になり、かつ多様になるからです。ここまでは少し悩んで頭をひねってみるとわかります。でも、本当はもうひとつ、大きなものがあるんです。それがすでに出てきた「セイの法則」なんです。丸茂明則著『改訂 入門世界経済』の18ページによれば、「1930年代までは雇用は放っておいても完全雇用になる」という資本主義経済論者の定番について触れています。名前は出てきませんが、セイの法則のことです。そして、アメリカやイギリスは15%前後あった失業率をどうにかしようとして公務員の給料を減らしたり、増税しました。なぜってセイの法則がそうするとみんなが働くようになって景気が回復するといっているからです。ちょっといまでは考えられないですよね。財政出動するどころか、緊縮だなんて。当然、経済は大混乱。これが世界大戦で一発逆転決めようぜ!という空気に繋がったという歴史家もいるくらいですから、経済学の理論ってのはつくづく罪なものです。

 

さて、この考え方が誤りであると世間が気づき、政府も雇用対策を打ち出すようになります。失業者が増えればそれを減らそうと公共事業をやる、補助金を出す、といったことですね。失業率が10%だったとして、それが5%になったら、わかりやすくざっくりいって5%ぶんの生産力が純増するんです。そうすればもちろん、経済は発展します。どこまでも際限なく増えるわけではないのですが、富やサービスの量が増えれば少なくとも苦しい立場の人たちは救われますから、当たり前といえば当たり前なんですが、セイの法則が信じられていたころにはそういった政策は愚策扱いだったんですね。

(あ、この本ですけどなかなか手に入らないと思います。かれこれ40年近く前の本ですので。バーコードもないのでバーコードで蔵書管理をするときに名前を打ち込むので覚えちゃうんですよね。手間のかかる子(本)ほどかわいいといいますか。まあ、それはいいですか)

ということは、ですよ。仕事を選んでんじゃねえぞ、国力が落ちるだろう!!という指摘ができる、ということです。突飛すぎましたか? 本稿のテーマは「仕事は選びなさいよ」という自論について語るためのもので、セイの法則のお勉強ではなかったことを思い出していただきたいのです。

 

セイの法則の間違いに気づいた現代経済、政治からすれば、これは強力な「仕事は選べ論者」へのカウンターになります。もちろん、一理あります。でもですね、いまの時代、足りないものがずんずん減って、人口ボーナスどころか人口減でペナルティが起きている状態で余剰な商品をつくることは先のセイの法則の誤謬からいって、やってはいけないことなんです。なんでもいいから働け論者からのアンチ・セイの法則カウンターに対して、仕事は選べ論者がアンチ・セイの法則でクロスカウンターを放つ。そんな状態です。セイの法則は結果として誤りなんですけど、その誤っている部分の解釈の仕方で殴り合えちゃうんですよ。本当にいろいろと厄介なモノを産んでくれたものだと思います。

 

私がここまで仕事は選ぶことに固執するのは、物余りの現代、差別化できない商品の価値は限りなくゼロへ向かっていくのですから、人間はイヤイヤ働いている場合ではなく創造性を働かせなければならないと確信しているからです。ましてやAIとロボットがイヤイヤ働く人間に取って代われる時代、ロボットに負けまいと懸命に動かす手を速くするだとか、ロボットの導入コストより安い賃金で働くなんてバカなことをしていたら、機械化や高度化が遅れている途上国に遅れをとることになります。これが最悪の結果です。人は疲弊し、長時間労働で人口は減り、技術でも後塵を拝すことになる。これは未来の話などではなく、すでに中国に置いてけぼりを食らっていますよね。むこうは計画経済国家なんですよ? 自由で拓かれた資本主義国が笑われちゃいますよ。仕事一つとっても、みんなが苦しんで働いているのだから、お前もそうしろと同調を求めるのですから、なかなかに難しいこととは思いますが、これからの時代、人間の創造性、今風にいえばクリエイティブさを発揮しないでどうするんですか。仕事は苦役だという考えを捨てないことには、仕事好きから仕事嫌いまで、天才から非才まで、全員が全員、不幸になっちゃいますよ。もっとも、経済成長や発展だけが人間のしあわせだとも思いませんが、人間が持つ生きがいや自尊心が失われるほど離されるようなことがあっては、これから生まれてくる子どもたちに申し訳が立たないと思うわけです。ですので私は、人間の価値と可能性を最大化するためにも、仕事は選べ論者なんです。

 

みなさんはどうお考えになられるでしょうか?

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