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地方自治体の未来は暗いというよりも

徳島県の未来が暗いというよりも

 

暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう

 

幼いころ、テレビかラジオからこのような言葉が流れていた記憶があります。

この言葉は確かカトリック系のキリスト教の標語だと思われますが、とてもよくできた言葉だとしみじみと思います。

私自身の身の上はひとつ脇に置いて、私の出身地、四国の徳島県は、毎年数千人規模で人が減っている、お世辞にも未来が明るい自治体ではありません。それをどうにかしようと様々な施策が考えられていますが、やはり、トップダウンではどうにもならないところというものもあると感じるのです。行政が動かなければ変えられないものがある一方で、行政が動ける限界もある。あんまり派手だったり突拍子もないことを行政が行うというのは批判もあるでしょうから、どこかでブレーキを踏まなければなりませんし、おっかなびっくりになるのは仕方ない。行政に対して、もっとやりようがあるだろうというのは少々お門違いかもしれないとすら感じています。

 

そこで、冒頭の標語なのです。未来は暗いといってすぐ、「行政がなんとかしろ」は違うだろう、と。でも、私も「行政に責任転嫁するな」といったところで、手も足も、頭すら動かさないなら同じことです。なにも物事は前に進んで行きません。そこで、「暗いと不平をいうよりも、すすんであかりをつけましょう」の標語のとおり、すすんであかりをつけることにしました。例えば、車がなくても生活できる「雰囲気」づくりや、いままでにない小規模産業(小商い)、文化の発信を地道にはじめていこうと考えています。

 

自家用車必須の幻想は地方離脱を促進します

 

地方に若者を呼び戻すといっても、都市部の大学を出た学生は、就職活動が面倒なので地方には戻ってきません。それについては企業側が出向くなりといった動きが必要なのですが、なにより最近のトレンドとして、「車を持ちたくない」というものがあります。また、そんな若者のきもちを理解している大人の少なさが地方にはあるのですね。車を持っていると、年に数十万円から百万円近くの出費になります。公共交通機関と自転車を活用すれば、その費用は半分以下にできます。車が金食い虫なので、地方の家賃がどんなに安くても、都会にいる方が楽で稼ぎがいいという自体になるのです。このあたりを賢い若い子たちは看破しています。にもかかわらず、大人なら普通免許くらい持っていて当然でしょ? というスタンスや、「自家用車で出社して、その車で営業も行ってよ」という地方企業は少なくないですよね。免許の取得費用もバカになりませんし、手間もあります。入試が終わって、入学までに短期決戦で取得する、夏休みに戻ってきて取得するというのは、いまはもう流行らないようですし、このあたりも変えていく必要があるだろうと思うわけです。

 

ただし、単に変えようといったところで変わらないのは自明です。というのも、「大人なら車くらい持っていて当然」という風潮が厄介だからです。文化的習慣というものは、理屈では変わりませんよね。自家用車が95%動いてない動産だというお話は以前もしましたが、それがどんなに無駄だといったところで身についた習慣は簡単に変わらない。「免許を持っていない人間はダメ人間だ」という価値観も変わらないでしょう。これも以前に申し上げたかもしれませんが、免許を持っていても、お酒を飲んで運転する人もいれば、悪いキノコを食べる人もいれば、私のように弱視になって運転を諦めた人間もいるでしょう。免許の有無なんかで選別できやしないのだ! といっても、やっぱり習慣と価値観は理屈じゃどうしようもないんですけどね。

 

どうしようもないので、まずは私自身が、免許がなくても、自家用車がなくても、徳島で暮らすモデルとしてつつがなく生活してみようと考えています。若者が公共交通機関に自転車などを持ち込む姿が頻繁に見られれば、雰囲気は変わっていくと思うのです。都会のようにいつも超満員で、3分もせずに次の電車が入ってくるような過密ダイヤでもないでしょうから、専用の袋などに入れて自転車持参で乗り込むことは難しくないはずです。ただ、これも習慣的に、そんな変わり者はいないので忌避されている、禁止されていると思い込んでいるだけかもしれません。折しも健康ブームですし、公共交通と自転車で快適にどこへでも行けるというアピールができれば、もう少し、数名でも、数十名でも、徳島に戻ってきてはくれないかな、と考えているわけです。

 

思いつきのような小商いで生計を立てる

 

仕事の基本は困りごとの解決だと思うんですね。最近は電子マネーや仮想通貨のせいでどうのといわれますが、それよりずっと前から「通帳残高」という形で仮想化されてしまっていて、仕事をすれば無機的に「データというお金」を受け取る形になったことで薄らいできていますが、困っている人を助けることで、感謝のしるし、信頼のしるし、職能のしるしとして、お金をもらっていただけなんですよね。別に貨幣経済が経済のゴールではないわけです。金とドルの交換が停止して50年も経ってないわけで、いまの経済の仕組みよりずっと昔から、日本ならお米だったり、いろいろな形で「しるし」をもらっていたんです。いつか交換できる「しるし」がもらえればそれでいいわけで、それはなにも紙幣や硬貨じゃなくてもいいんですよ。そんなことない! って声も聞こえてきそうですが、現金主義を貫くなかで手形や口約束をもらっても、相手が支払わないことはありえるんですし、現金って一体なにが優れているんでしょうね? と思うわけです。保管や持ち運びに便利? 現物資産にしない、持たないことが一番便利なのではないでしょうか?

 

と、いきなり違う話題をしはじめたようにも見えるでしょうが、そうともいえないんですよね。困りごとを解決して、その恩に報いる環境さえあれば、別にそれでいいんじゃないかと思う、ということです。現金がうず高く積み上げられなくても、得意を活かした小商いをいくつか掛け持ちするなかで、それぞれに助け合って生きていく。昔ながらのコミュニティができればそれでいいのでは、と。別に中世や原始時代の生活に戻れとはいいませんよ。田舎だからこそできる、コミュニティの力で無駄を省いて効率的に、現代の技術も取り入れながら暮らす形があるのではないかということです。

 

こちらも「暗いと不平を〜」理論で、早速あれこれ調整をはじめてみました。詳細は追ってご報告することになると思います。あまり期待せずにお待ちいただければと存じます。

 

 

失敗しても食べることが保証されていることの大切さ

 

地方に若者が残らない、戻ってこない理由は、選択肢の少なさですよね。選択肢というのは夢や希望のことだと思われがちですが、どこまでも夢や希望を追う若者は少数派です。どこかで折り合いをつけて、大人な行動に移るものですよね。では、厳密には選択肢の少なさというものはなにを意味するか。これは、就職で失敗しても別の仕事などで食べられる可能性のことです。つまり、生きることのリスクヘッジです。だとすれば、地方にできるリスクヘッジは、兼業農業のような形の推進です。上記の小商いをしながら、自分の強みを売りながら、失敗しても最悪自分で作った作物を食べられるという、食べることの保証、命の保証です。これは都市部よりやりやすいはずです。都市部には専業かつトッププレイヤーが住み、地方へ行くにつれて段階的に兼業的な職能人がいればいいわけです。全員が一軍のスタメンでなくてもいい。ベンチでもいいですし、二軍選手も必要です。そういう私のような一線級(どころか二線級ですら)でない人間が居場所として堂々と、かつ安心していられる場所であることを保証し、アピールするわけです。これには行政の力が必要になるのは間違いありません。単に牧歌的な田舎の環境の良さをアピールしても、暮らしの実態や将来を思い描けなければ、単なる観光地止まりです。そこから先の生活に、一定程度の保証があることがわかれば、大企業志向が根強い若者にとって、安心材料となると考えられるわけです。

 

……いかがでしょう。

 

すすんであかりをつけはじめました

 

とりとめもない内容となりましたが、私はすすんであかりをつけはじめました。まだまだ未熟極まりないものですが、もし、徳島の県南地域で一緒になにかはじめられないか、どういうことを考えているのか気になるという方は、ぜひご連絡ください。

 

もう少し見通しがつきましたら、クラウドファンディングなども検討しているところです。

小さくはじめて、食べることの保証のある田舎、徳島のかたちを模索していければと存じます。

どうぞよろしくお願いいたします。

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