矛盾や反論の余地のないものとは距離をとる
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地球が生まれる確率は……
「この地球が生まれる確率は、サイコロを10億回振って、連続で同じ目が出たときと同じくらいの確率だ」
そんな話を目にしたことがあります。事実であるならば、まさに奇跡としかいいようがありません。
しかし、これはただのラッキーであって、理屈を用意していいものかどうかとも思うのです。
世の中は理屈だけでは動かない
深酒をすれば二日酔いにあう、暴飲暴食は太る、勉強しなければテストで悪い点をとる。仕事ばかりしていると、家族と不仲になる。
「そんなことはわかっている」
でも、多くの人は理屈ではどうにもならない感情を持ち、非生産的な行動や、説明のつかないことをします。つまり、理屈通りに進めようとしても、絶対に邪魔は入るということです。
社会一般に受け入れられる理屈を、イデオロギーと呼びます。それがもっと小さな世界になれば、教義です。個人なら矜持になるでしょう。このなかでも反論のしようのない理屈を持っている人がいたら、さっと道を譲ることにしています。また、社内会議で「反論のしようのないこと」「満場一致すること」が出てきたら、採用しないことにしています。
「反論素材が出てこないということは、本質を理解していないのかもしれないから、これは保留にします」
というのです。
否定されない完璧さ、誰もが認めるものごと。そんなものがこの世界にどれくらいあるでしょうか。それらは極めて脆弱で、ちょっとした計画違いで破綻したり、重大な間違いをおかしていたりするものです。人間の世界は理屈通りにはいかないのですから、脆いこれらはますます達成されません。
反論を許さない風潮、誰もが認めざるをえないこと、反対意見が出ないことは「危険」のサインです。
「サイコロを10億回振って、同じ目を出すなんてできっこない。地球は超常的な存在がつくったのだ。そうでなければ誰がやったというのだ。いってみろ」
「肉食は汚らわしい。菜食徹底主義こそすばらしいのだ」
程度の差はあれ、反論できない、させないような事柄は世の中に溢れています。
反論の余地がないことは、物事を恐ろしく単純化している場合に起こるか、あらゆるものを強引にまとめあげる理屈によって成立しているものです。その理屈通りに進めた結果、実現不可能性や起こりうる反作用などを意図的に無視している場合が大半です。
一番多いのが、「世界のすべてがこの理屈通りに動けば」といった前提に立つものです。経済学でよく見ます。
これは、「このサトウが買った宝くじの番号通りに年末の抽選会で数字が出れば」といっているのと同じです。途方もないアホですよね。まあ、私はアホなので構いはしないのですけども。
さらにこの話には続きがあって、「数字が出れば3億円は自分のものなのに、理屈通りに数字を出さないバカがいるせいでどうのこうの〜」というわけです。
そりゃあ、そうはならないでしょう。
くじ引き以上に複雑怪奇な世界ならなおのことです。
皆さんも、反論の余地のないものを見たら大きく引いてみてください。少なくとも手を出さない方が懸命です。私が本気で「数字が出れば〜」といっていれば、近寄ろうとは思わないでしょう? きっと、危ない人と思うはずです。それでいいのです。反論の余地のないものというのは、羽織っている上着が違うだけで、中身は同じです。あまりに完璧な理屈で心酔しそうになることもあるかもしれませんが、まずは引いてみることです。世の中はそんなに単純にはできていませんから。
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