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偽書は誘惑する

人はなぜ、偽書に惹かれるのか

 

行ったはずのない旅行記、ありえるはずのない事実、UFOやオーパーツだって、本になっていれば広義には偽書です。有名なところであれば、コロンブスの描いたジパング像。日本は黄金の国ではないですよね。確かに、金はたくさん取れたでしょうが。イブン・バットゥータやイブン・ハルドゥーンの描いた中央アジア。そんな無茶な旅程は達成できるはずがない。

 

 

といわれているだけかもしれず、古代中国にはロシア人とは違うヨーロッパ系人種がいた証拠があるそうですから、大昔から人は案外何千キロという距離を旅行していたのかもしれません。

 

本になっていれば事実なのか

 

安易な行政批判や政権批判、歴史資料批判と受け取っていただきたくないのですが、紙に印字してあれば、それは事実なのか、ということなんです。公文書が偽造されるなどということはいまでもあるわけですし、歴史は勝者が描きますから、どうしても不都合なことはなかったことにされがちです。反対に、政権に批判的な人物などは嘘の歴史を残そうとするかもしれません。虚偽によって詐欺や搾取を狙ったり、目的は様々でしょうが、全時代、全世界に通じていえそうなことは、「紙には魔力がある」ということなんです。

 

電子書籍が出はじめたころ、出版社でプロジェクトを担当しましたが、そのとき電子書籍なんかに紙の本は負けない。紙には大自然の力があるし、所有力も満たす。「紙は神に通じる」のだ! なんてダジャレも語られたりしましたが、まさにそのとおりで、迷惑メールは即削除できても、ハガキや書留で届く架空請求には引っかかるそうですし、紙というのはそれだけでとても信用されているわけです。

 

電子書籍は紙と同じ内容が書いてあるはずなのに、まるで信用されませんし、電子版しかないような本は、著作としての存在が認められないようです。同様に、HPで著作や研究を公開している人もおられますが、そういうものはまったくといっていいほど顧みられません。立派な装丁で函(はこ)入りになっていないといけなくて、函に収まっていれば、内容が怪しげでも著作として、ないしは科学的に価値があると絶賛されがちです。

 

だからこそ、紙に書いてある、歴史書に書いてあるから正しいなんてことは一概にはいえないんです。そういう歴史的事実は資料として確認できないとか、歴史上の偉人はそんなことは考えない、いわないなどという批判をいただくわけですけれども、昨日の夕飯どころか今朝みた夢の内容といった自分のことすらロクに覚えていない人間が、他人の、しかも歴史上の人物の経験、思考、その他全人格を理解しきったように述べたりするのは極めて危険だと思うのです。

 

「それは紙の資料になってないので、ありえない」

という発想は、資料を読めば読むほど起こります。その分野に詳しいんだという自負が出てくるからですが、私はこれは紙の魔力も作用しているんと思うわけです。紙に触れれば触れるほど、紙から離れられなくなるのです。そして、歴史上の人物はそんなことはいわない、そんな行動はとらないなどと、フィクションの世界にまで文句をつけようと投書したりするんですね。

 

本当に本人に成り代わっているかのように振る舞うのですから、やはり完全に取り憑かれてしまっているのです。紙は紙でしかありません。抗いがたい、魅力ある存在ですが、そこに書いてあろうと、なかろうと、その時代に、その場所で生きていない限り、事実かどうかを確認する術などないわけです。ましてや資料にないからと、創作の世界にケチをつけるなんてもってのほかでしょう。

 

とはいえ、それでもケチをつけにくる人はいます。警備員の制止を振り切り、編集部の前まで猛進してくる読者はいるんです。そんな話を耳にするたびに、私はこうも思うわけです。

「どうしてもケチをつけたいのであれば、そいつのコイた屁の数まで数えてからこい」

って。

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