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森下雨村が育んだ、雨村の不遜な今の釣り

このネタはここでやるべきかどうか最後まで迷った。釣りの話なのだから、釣りの本やメディアに載せるべきだろうと思っていたものの、いやはや、最近の釣り人は文学は嗜まないので結構ですとのことで、失意のなかこちらへ流れきたという次第。かくいう私も酒は一滴も飲めず、タバコは一度もフカせたことがないから、まったくどうのという義理もない。フカセの釣りなら何度もあるのだが。

 

さて、森下雨村といえばかつての推理小説界に知らぬ者なしといわれた大人物である。もちろん、知らないであろう。それは結構、いやいや、それで結構なのだ。例えばだが、雨村は江戸川乱歩を文壇に担ぎ上げたといったらどうか。この名前ならきっと、文学少年、少女でなくとも知っていることだろうと思う。青山剛昌氏のマンガ『名探偵コナン』の主人公「工藤新一」が名乗っているのが「江戸川コナン」で、これは江戸川乱歩とコナン・ドイルから拾ってきたものだから、むしろ若い世代ほど知っているかもしれない。

 

森下雨村は江戸川乱歩を見出したほか、同様に探偵物としていまだにドラマになり続ける金田一シリーズの横溝正史や、異端の作家として知られる現在の秋葉原(千代田区外神田)生まれの小栗虫太郎、私の郷土、徳島の作家である日本SF界の父、海野十三なども森下雨村が率いた雑誌『新青年』で作品を発表している。と、横溝正史以降は誰やねんといわれかねないので、そろそろ切り上げることにして、最後にもうひとつふたつ、箔付けをしてこの話題は終おうと思う。

 

松本清張、井伏鱒二、谷崎潤一郎に吉川英治、山本周五郎。どうだろう。どれかひとつくらいは教科書なりテレビなりで名前だけは見たことがあろうかと思う。こうして偉そうに書いているが、実は私も大して読んだことがない。そもそも創作、文芸嫌いの子どもだったからだ。小説なぞの作り話を読むくらいなら、伝記のひとつも読んだほうがいいというヒネクレ少年が、そのまま大人になってしまった。そんなヒネクレ男が、いまさら恥を晒して文芸の世界に入っていくというのだから救いようがないとつくづく思う。

 

ここまで書いておいて、いったいこれのどこが釣りのメディアに出すべき話なのかと思われたことだろう。よく我慢していただきました。やっと、ここからですぞ。この雨村、手記的に残した作品のなかに『釣運』というものがある。これについていろいろと述べたいわけである。ここから話せばよかっただろうか。しかしそれでは字数も重みも出せないために、色々と調べて知識をひけらかした。もったいをつけて申し訳ない。

 

さてさて、氏の釣り好きは有名だけれども、どうも釣りに関する手記、随筆の話題となると、ある作品の名前しか出てこない。釣り文学の傑作として名高く、燦然と輝きすぎて他を白飛びさせてしまう『猿猴川に死す』の存在だ。こいつがあまりの凄味を持って凄んでくるため、誰も他作を論じることができず、すごすご退散してくるという具合だ。とかく『釣運』について語るところは見たことがない。というよりも、そんな世界に顔を出したことがない私生来のヒキコモリのせいかもしれないのだが、話題になりにくいことには違いなかろうと思う。

 

この『釣運』は大鮎を釣り上げる大釣果の話が描かれる。そこに、こともなげに鋤(す)き込まれているのだが、雨村は竿を出すうえで鑑札を買っていないのだ。鑑札とは、釣りの世界にあっては免許証のようなもので、いまでいうところの「遊漁券」にあたる。数日釣るのに百円もする遊漁券を買うのはもったいないと居直って、巡回の人間に見咎められるも、その人物の知り合いの知り合いだからと見逃してもらう。そうして申し訳なかったと思うならまだしも、大いに恥じ入るどころか大手を振って釣りを再開するのだから、釣り人とはこんなものと思わずをえない。

 

まず、これが平均的釣り人だと思って欲しい。悔しいが、事実として受け入れざるをえない。一方で、昔の人は偉かった、真面目だった、いまの釣り人はルールも守れぬ愚か者、などという言説には耳を傾ける必要はないということだ。そんなものは、ちゃんちゃらおかしな嘘だ。だからといって現代の釣り人がルールもマナーもなく、遊漁券も買わずに釣りをしてよろしいなどとは天地が返ってもいうつもりはないので、悪しからず。

 

雨村は当時日本最大の出版社、博文館の編集長にまでなった男である。いまなら(名前を出すのは憚られるが)集英社に相当する。ちょっとわからないという人は『週刊少年ジャンプ』を出しているところだといえばわかってもらえるだろうか。それでもわからない? ならば、講談社や小学館だとどうだろうか。講談社は『マガジン』、小学館は『サンデー』だ。『サンデー』掲載の『名探偵コナン』でわかってもらえるだろう。いやいや、さっきわかったといっていたではないか。江戸川乱歩のくだりで。

 

そんな雨村だから、もちろん学歴も抜群に高い。明治大正の時期に生き、早稲田を出ているスーパーエリートだ。学歴、職歴申し分なく、別邸を構えたり、さっさと隠棲をはじめたりするような余裕あふれる人生でありながら、心血を注ぐ釣りの、己の根幹を成す釣りの、そのために隠棲までした釣りの「鑑札」を買いたくないというのである。目玉が飛び出て裏のドブまで転がり出しそうだ。

 

それで作中、叱責や罰金といった形で「嫌な思いをせずに済んだ」などというのだから、時代背景がどうのというより、人の性質として雨村は盗人だということだ。ましてや、物を書き、書かせて食う仕事をしていたなら、物の価値に人一倍敏感でなければなるまい。盗作、盗用には目を光らせておきながら、鮎を盗むことにはなんの罪の意識も抱かないのか。人間のいびつさが照らし出されて、文学として観察するにはおもしろいが、いち釣り人としては勘弁ならぬ。もっとも調べが足りておらず、大正の当時、札が百円というのがどこまで真実かは追ってみないとわからない。まさか日券が百円などということはあるまいとは思うものの、年券百円なら、いまの物価にして30万円といったところ。確かに法外にも見え、痛い出費だが、嫌なら釣らなければよいのだし、釣る権利は当然ない。いまも昔も「鮎が欲しければ魚屋へ行け」なのだ。釣りというゲームを楽しむなら、ゲーム料がかかるのは当然だ。

 

当時の物価や事実関係(年券か一生涯有効かなど)も把握してから批判しなければならぬとも思ったけれども、調べもせずに断罪したのは失敗したとも思っている。けれども、結局のところ遊ぶ権利もなしに遊んでおいて、偉そうに踏ん反り返って釣りの手記を残したことが気に食わんという個人的怒りが先に立ってしまった。まあ、冷静になったところで、作品や業績を含めた氏への評価も、現在の釣りの在り方への想いも、なんら変わるところはないから構いはしないのであるが。

 

平均的釣り人とは、どうやら盗人だと考えて差し支えないようだ。だからこそ、今日の釣り人は盗人どもを叩き出さなければ、未来はない。そういつまでも、盗人を見逃すほど現代社会は間抜けで寛容ではないわけだ。雨村がつくった釣りと文学の世界は脈々と受け継がれ、今日もまた釣り場にゴミを捨て、違法に釣りをし、朝から晩まで騒ぐわけだ。なんとも立派ですぞ。このアホンダラどもめ。

 

文学を志すなら、氏やその弟子たちの作品は学ぶところ大であろうと思う。少し目を通しただけでも実におもしろいのだが、その文学的価値などといわれると、正直門外漢なのでわからない。しかし、釣りのことなら多少、わかる。伝統の釣り、釣り師像は変わらねばならない。大正が終わってすでに百年の時が経った。そろそろ漁具と一緒に釣り人も変わる時期ではないかと思う。変わらないのは水系と魚だけでよい。

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